2017年12月06日

歴史的假名遣事始め (三十六) 市川 浩

クイズで遊ぶ歴史的假名遣(三十六)

先月のクイズ解答
問題
本年一月から十一囘かけて白石良夫著「かなづかい入門」の批判を行つて來ました。全體を通しての感想、批判を纏めてみて下さい。

感想の一例を擧げます。

本書の著者白石良雄氏は御自身の信念もさることながら、結果として文部科學省主任教科書調査官の立場から、同省の政策推進の一貫として、現代假名遣の效用に學問的知識の衣を着せて本書を刊行したと考へられます。このことはそれらが私のやうな正規の國語學者にあらざる者でさへ容易に批判できたことからも明らかでありませう。
しかし重要なことは、言はば領土や國民の生命財産の專守防衞に徹することが國の政治の本質であるやうに、國語問題に於ても正字・正かなの實踐と傳承に徹することが本質であり、之に對する本書や之に類する「國語改革」論の攻撃があれば、即座に斷乎として正論を以て論破するための自衞戰力を、この十二囘に限らず其の前からもこの「日本語あやとり」の中で提示して來た積りです。
一方本格的論戰は福田恆存先生その他の御努力で、正かな派の勝利が確定してゐますが、現在は本書のやうに一見學術的な、但し「私の國語教室」は引用はをろか、參考文獻の一覽にさへも取上げてゐないといつた論法での正かな批判は寡くなり、寧ろ出版社の「賣れない」、SNSでの「難しい」、「讀めない」といつた感情論的攻撃が主流になつてゐます。
從つて我々は之に對する批判、反論を準備しなければなりません。來年の本欄ではこの問題に焦點を當てたいと思ひます。
posted by 國語問題協議會 at 22:24| Comment(0) | 市川浩

2017年12月03日

數學における言語(19)村上一郎と「文学情念論序説」河田直樹

 前回と前々回では、トマス・アキナスの『神学大全』と吉田兼好の『徒然草』との言葉を通して、「第一作出因」の探究の仕方の違ひについて述べ、「西欧精神」の真髄とも言ふべきものを少し考へてみました。これだけをみても「日本人は知ることよりも感じること、計ることよりも想ふことを価値としてきた」といふ、村上一郎が「文學情念論序説」で述べたことを了解してもらへるのではないかと思ひますが、彼は同評論で「日本にはあざといほどドラマチックな存在論が哲理として成らなかつた」とも記してゐます。そして、續けて以下のやうな感慨を述べます−「ギリシア以後、二千年をへて東洋に世界で二番目の海洋中心の文化をひらいた日本は(トインビーの所説參照)しかし奈良時代以前に植民地の開拓に失敗したため、インテリはギリシアのやうに海外で自由に考へるといふチャンスをもたず、几帳のかげにかくれた。知識と芸術はそこにのみあつた。その挫折感は、事實以上の挫折感として熟し、近代にいたる」と。奈良時代以前に植民地開拓に成功してゐたなら、日本のインテリは「几帳のかげ」に隠れることなく、古代希臘の哲學者のように自由にものを考へるチャンスをもつたかどうか、私には疑問です。むしろ、我が國の地政學的宿命と隣國シナの文化がそれを不可能にしたのでは、と考へますが、是非はともかく近代にいたるまで我が國では「あざといほどドラマチックな存在論」が成立しなかつたのは確かなことです。
 村上一郎は、この論考の後半で「ホつブズ、ロック、バークリ、ヒューム」等のいはゆる英國の「經驗主義哲學者」たちをとりあげ、「日本の情念」に對する「西歐の情念」について考察してゐますが、その論考は1965年當時の、輕薄な西洋カブレの「進歩的社會科學者やマスコミ論者」たちに對する烈しい怒りに満ちたものになつてゐます。
 ところで、ここで私がさらに取り上げてみたいのは、實は、ヨーロッパ近代に多大な影響を與へ、最高の自由主義者と言はれたジョン・ロックについてで、「ロックの知と數學における知」とを比較してみたいのですが、今回は少し脱線を許していただき、日本的絶對の探究者ともいふべき「村上一郎」についていま少し述べてみます。
 村上一郎は、評論「文學情念論」を書いてから10年後の1975年3月、日本刀で自死しています。詩人清水昶は詩集『新しい記憶の果實』の冒頭に「開花宣言(これは‘落花’宣言でもある)」といふ詩をおき、一郎につぎのやうな詩句を捧げてゐます―「開花宣言が發せられた その日/ひつそりと散る山間の櫻のやうに/だれにも知られずあなたはひとり/暗緑の春の水へと舞ひ落ちた/暖かな刀身を渡つた虚無のひかり/無言でのけぞる細長いあなたの影/潔癖な死には重量がない・・・」。何ともいたましい最期といふほかはありませんが、三島由紀夫は遺作となつた評論『小説とは何か』の悼尾で村上一郎の「廣瀬海軍中佐」といふ短編小説に觸れ、「氏の小説技巧は拙劣を極めたものだが、しかしこれほどの拙劣さは、現代に於て何事かを意味してゐる」と述べてゐます。さらに「この短編ほど、美しく死ぬことの幸福と、世間平凡の生きる幸福との對比を、二者擇一のやりきれぬ残酷さで鮮明に呈示してゐる作品は少ない」と續け、次のやうに締め括ります―「村上氏は、最も劇的な對立概念を、おそれげもなく、赤裸のまま投げ出して、氏のいはゆる『小説』に仕立てたのであつた」と。
 三島のこの言葉が村上一郎の自死の呼び水になつた、と即斷するのは早計過ぎるかもしれませんが、二人とも苛烈な自死といふ形で自分の人生にけりを付けたのはまちがひなく、良し悪しは措くとして、私は兼好とは別の形の「知ることよりも感じること、計ることよりも想ふことをよしとした」繊弱(ひわず)な日本文化の宿命を見る思ひがします。『小説家の休暇』で「斷乎として相對主義に踏み止まらねばならぬ。幸福な狂信を戒めねばならぬ」と書いた30歳の三島を思ふとき、彼らの自死は、私のやうな數學屋にとつては、ただただかなしいといふほかはありません。次回は、ロックについて考へてみます。     (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 21:11| Comment(0) | 市川浩

2017年11月26日

おもて〈面〉⇔うら〈心〉の應答               原山建郎

二〇一三年、遺傳子檢査を受けた女優のアンジェリーナ・ジョリーに、乳ガンと卵巣ガンの遺傳的リスクが各々八十七パーセント、五十パーセントであることが判明した。彼女の母親は四十九歳で卵巣ガンと診斷され、五九歳のとき乳ガンで亡くなつた。祖母は乳ガン、叔母も卵巣ガンで亡くなつてゐる。
そこで、彼女は豫防的乳房切除(乳房再建)手術を選擇し、二年後には卵巣と卵管も摘出した。この決斷を「勇気ある選擇だ」と賞讚の聲がある一方で、「乳ガンの遺傳子があつても、必ずガンになるとは限らない」といふ意見も多く寄せられた。
なるほど、遺傳的な要因が強く關與して發症する乳ガンや卵巣ガンは、全體の五〜十パーセント程度、殘り九十パーセントは、遺傳子とは関係なく發症しているといふデータもある。それでも、「ガンの遺傳的リスクが八十七パーセント」と告げられれば、誰でも豫防手術の選擇をめぐつて心がゆらぐ。
多くの醫療機關が、遺傳子檢査などの情報を元に、患者個々人に最適化したオーダーメイド醫療を喧傳(けんでん)した。しかし、人間のからだは、機械のリコール(缺陷部品の交換・修理)と同じに考へられるのだらうか。

昨年末、東方醫療振興財團主催の市民公開講座『鍼1本が医療崩壊を救う!』で、「パソコンを見(み)る醫學、つながりを診(み)る醫療」について講演した。パンフレットに、私はかう記した。
〈患者のからだに觸れることもなく、パソコン画面に映る檢査値の變化を重視する醫師がふえてゐる。からだを部分に分けて見る現代醫學は、すぐ隣とのつながりを見落としやすい。かつて、鍼麻酔で無痛抜齒を體驗した私は、部分と全體のつながりを診る鍼灸治療のアドバンテージを、醫療再生への第一歩に生かすべきだと考へる。〉
メインテーマは、「からだのおもて〈面〉⇔うら〈心〉の應答」である。〈面〉の訓は「おもて(外)」だが、〈心〉の古訓に「うら(内)」がある。そして、からだの外(おもて)と内(うら)の接點は、體表を覆ふ皮膚である。鍼灸(東洋醫學)の診察・治療は、すべて掌(たなごころ)、た(手)+な(の)+こころ(心=うら)でふれる皮膚を介して行はれる。まづ脈診や腹診でうら(内)の様子を窺い、おもて(外)の經(つ)穴(ぼ)(交流ポイント)から鍼や灸の刺戟によつて、うら(内)に語りかける。治療後に感じる心地よさは、うら(内)からの應答だ。近年、皮膚への適切な〈快〉刺激が、腦の疲れをとるオキシトシン(癒しのホルモン)の分泌を促すことが明らかになつた。

統合醫療の創始者、アンドルー・ワイルが、『癒す心、治す力』(上野圭一譯、角川書店、一九九五年)で、【治療と治癒とは同じものではない。治療は外からほどこされ、治癒は内から起こつてくる。】といふやうに、皮膚はからだの物理バリアであり、外部をモニターするセンサーなのだ。
また、『思考のすごい力』(ブルース・リプトン著、西尾香苗譯、PHP研究所、二〇〇九年)の中で、革新的な生物學であるエピジェネティクス(遺傳子を超えたコントロール)に着目したリプトンは、遺傳子檢査やオーダーメイド醫療の「遺傳子がすべてを支配する」といふ遺傳子決定主義の考へ方は、すでに時代遲れ遅れだと指摘してゐる。
【エピジェネティクスがこの十年間に解明したところによれば、遺傳子として受け渡されるDNAの設計圖は、誕生のときにはまだ確定してゐないらしい。遺傳子は運命の女神ではないのだ!環境による影響、たとえば榮養分やストレスなどの感情が、基本的な設計に手を加へることはないにしても、遺傳子を變化させることがある。】
(同書一〇九ページ)
〈面(おもて)〉と〈心(うら)〉の應答が拓く、鍼灸の未來。
(武藏野大學非常勤講師『出版ニュース』コラム Book Therapy 2013年))

posted by 國語問題協議會 at 11:05| Comment(0) | 原山建郎