2023年01月09日

數學における言語(83) 中世~學論爭と數學−後期󠄁ヘ父哲學(U)

 前󠄁回述󠄁べたやうに、アウグスティヌスの遺󠄁した著作量は厖大であり、それらに目を通󠄁すことは勿論私如きには不可能ですが,それでも筑摩󠄁書房󠄁の世界古典文󠄁學全󠄁集の第26卷で、『告白』、『幸福な生活』、『独白』を渡辺義雄氏の飜譯で讀むことができます。先人の學恩に感謝するほかありませんが、この3作品だけを通󠄁しても、アウグスティヌスの“ひととなり”を實感することはできます。
 たとへば『告白』第4卷第1章には「私の19歳から28歳まで、この9年の間、私たちはさまざまな欲望にふけって、誘惑されたり誘惑したり、欺かれたり欺いたりした」といふ記述󠄁が見られます。“19歳から28歳まで”とは、アウグスティヌスが內緣關係にあつた女(名前󠄁不詳)と同棲してゐた時期󠄁とほぼ重なりますが、この女との間には一人の男兒があり、同棲は、母モニカの斷つての願ひによつて終󠄁止符が打たれるまで14年間續きます。女と別れたのは彼31歲のとき、單純計算すると17歲の頃から同棲は始まつてゐたといふことで、當時ではさほど珍しくもなかつたのかもしれませんが、やはりアウグすティヌスの早熟ぶりを示すエピソードではあります。
 アウグスティヌスが“女”一般のことをどう考へてゐたのか?33歲の頃書かれた、「“理性”と“私”」の極私的󠄁對話篇とも言ふべき『獨白』の第10章には、次󠄁のやうな對話があります。
理性:女はどうか。美しくて、しとやかで、おとなくしくて、教養もある女を、あるいは君が容易に教え込める女、(中略)君に一銭も負担をかけないですむ持参金つきの女を(中略)、ときどき君はいいとは思わないだろうか。
私:あなたがどれほど女を美化し、あらゆる長所で飾り立てようとも、私は何よりも肉の交わりを避けなければならない、と決心しています。女の媚態とあの肉の接触−これがなくては妻をもつことはありえません−ほど、男の魂をとろけさせるものはない、と私は考えています。(中略)誰にせよ、ただそのことのために女と交わる人を、私は驚嘆すべき人と思うかもしれませんが、決して見習うべき人とは思いません。

 若きアウグスティヌスが、カルタゴやミラノの町で肉慾の虜になり放縱な生活に身を任せて自墮落な日々を送󠄁つてゐたことはよく知られてゐますが、上の對話はさうした生活に對する、若者らしい自責の念から生まれたものと考へられます。時代は變はれど、おそらく現代の年とても內心では、アウグスティヌスと同樣な實感を懷いてゐるはずです。ただし、私自身は「生命(いのち)の樹になる死の果實」(アルベエル・サマン)である男の“肉慾”を、單なる女への欲情󠄁とは考へてゐません。ここでは深入りしませんが、ダンテの『~曲』風を氣取るなら、男性性慾の根源的󠄁本質は“時空の超越願望󠄂”であり、最も卑俗な“肉慾の牢獄”は、同時に最も~聖󠄁な“天上界への渴仰”でもあると考へてゐます。 
 アウグスティヌスの言說で私が最も興味を持つてゐるのは、彼の“時間論”と“幾何學論”です。『告白』第11卷、第14章には次󠄁のやうな“吿白”があります。
それでは時間とは一体何であるか。誰がそれを容易に簡単に説明することができるであろうか。誰がそれを言語に述べるために、まずただ思惟にさえも捉えることができるのであろうか。(中略)しかし、私たちが日常の談話において、時間ほど私たちの最も身に近い熟知されたものとして、語るものがあるであろうか。それでは時間とは何であるか。誰も私たちに問わなければ、私は知っている。しかし、誰か問う者に説明しようとすると、私は知らないのである。

 このアウグスティヌスの“時間”への驚きは、80回目に紹介した澤口昭聿氏の、あの“連續體”を前󠄁にしたときの困惑とほとんど同じだと言つていいでせう。アウグスティヌスは、すでに千六百年以上も前󠄁に“連續體”の不思議を語つてゐるのです。  (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 10:15| Comment(0) | 河田直樹

2022年12月30日

國語のこゝろ(22)「『だいち』と『じしん』〜『簡單な說明こそ正確』とは限らない」/押井コ馬

【今回の要󠄁約󠄁】
@「地震の地は『ち』が濁って『ぢ』」も「地震の地は元から『ジ』の音󠄁」も、分かり易い說明ですが間違󠄂ってゐます
Aそれでも、「ち」と「じ」の對應に直感的󠄁に違󠄂和感を覺えるのには理由がありさうです
B「簡單な說明こそ正確」とは限りません

【主󠄁な漢字の新舊對應表】
國(国) 單(単) 對(対) 應(応) 覺(覚) 舊(旧) 畫(画) 體(体) 變(変) 觸(触) 來(来) 惡(悪) 專(専) 實(実) 吳(呉) 發(発) 區(区) 殘(残) 從(従) 續(続) 學(学) 讀(読) 氣(気) 會(会) 假(仮) 覽(覧) 册(冊) 關(関) 圖(図) 澤(沢) 當(当) 踐(践) 傳(伝) 號(号)

「旧仮名遣いとアニメ、反グローバリズムと陰謀論/浜崎洋介さんと保守思想を語る04」


 一昨日公開された動畫ですが、sc恆存氏の著作『保守とは何か』から、歷史を繫いでいくものである言葉の大切さ、そしてsc恆存氏は決して『舊字・舊かな』で言葉の『コスプレ』をしようとしたのではなく、(GHQが主󠄁體ではなく)日本人自身が率󠄁先して進󠄁めた國語の改變に抵抗した事が紹介されてゐました。

 ところで、この動畫では、現代仮名遣いで大地の地は「ち」と書くのに、地震の地は「ぢ」ではなく「じ」と書く事について觸れられてゐました。皆さんは「歷史的󠄁かなづかひでは何故『ぢ』と書き、現代かなづかいで『じ』と書くやうになったのか」を說明出來ますか。

■二種類の「分かり易いが間違󠄂った說明」
 歷史的󠄁かなづかひこそ正統な國語だとみなして擁護する人の中には、「大地の地は『ち』と書くのだから、地震の地は『ぢ』と濁るべきだ。それを改惡して『じ』と書かせる現代仮名遣いはとんでもない」と言ふ人が少なからずゐます。……これを「A」とします。
 さうすると、どこからか國語の專門家やら國語マニアやらが登場し、「舊かなを擁護する連中は無知なくせにそんな噓をひけらかして情󠄁けない。地震の地は『ち』が濁った『ぢ』ではなく、元から『チ』と『ジ』の二種類の音󠄁があるから『じ』でいいんだ」と言ふのがお約󠄁束です。……これを「B」とします。
 どちらも「一見分かり易い說明」です。しかし結論から先に言ふと「どちらも間違󠄂ってゐます」。

■「元々『ジ』」ではなく「元々『ヂ』」
 實は、Bの指摘は「一部」正しいのです。
○地震の地は「ち」が濁った「ぢ」ではない(「ち」は漢音󠄁、「ぢ」は吳音󠄁)

 しかし間違󠄂ひもあります。
×元から「チ」と「ジ」の二種類の音󠄁がある
○吳音󠄁の「ぢ」の方は、元々は「ジ」と異なる「ヂ」の音󠄁だった

 かつては日本語の「ジ」と「ヂ」の發音󠄁は分かれてをり、かなもそれぞれの發音󠄁に合はせて書き分けられてゐました。中國から「地」や「治」といふ文字が入った時、日本人は「ジ」と異なる「ヂ」の音󠄁と認󠄁識し、「ぢ」と書いたのです。
 しかし、一部地域で「ヂ」の發音󠄁が「ジ」に變化󠄁していきました。江戶は早くから變化󠄁し、東北・北海道󠄁は更に進󠄁んで「ジ」「ズ」の區別も曖昧になったのは皆さんご存じの通󠄁りです。なほ、高知や九州の一部は近󠄁年まで「ジ」と異なる「ヂ」の音󠄁が殘ってゐたと聞きます。
 それでも、書く時は從來と同じく「ぢ」のままでした。つまり「地震」を「ヂシン」ではなく「ジシン」と發音󠄁するやうになっても、「ぢしん」と書き續けたのです。歷史的󠄁かなづかひは「現在の發音󠄁」よりも「語源」を重視する、「語源主󠄁義寄りの表記」だからです。
 昭和二十一(1946)年に「現代かなづかい」が吿示されると、この方針が大きく覆されました。「現代かなづかい」は「語源」よりも「現代共通󠄁語の發音󠄁」を重視する、「表音󠄁主󠄁義寄りの表記」です。「ちぢむ」(同音󠄁の連呼)や「はなぢ」(二語の連合)のやうに「ぢ」で書く例外は一部殘されましたが、「ぢめん」はどちらの例外にも入らず、「じめん」と書かれる事になりました。

 あまり知られてゐない事ですが、かつての「現代かなづかい」には、『「クワ・カ」「グワ・ガ」および「ヂ・ジ」「ヅ・ズ」をいい分けている地方に限り,これを書き分けてもさしつかえない。』といふ一文がありました。表音󠄁主󠄁義を標榜する「現代かなづかい」が、高知や九州の一部など、「ジ」と「ヂ」の發音󠄁を使󠄁ひ分けてゐる地方で「發音󠄁通󠄁り書くな」といふのも問題だと思はれたのでせうか。しかし實際には、學校ヘ育やテレビ等の影響で共通󠄁語化󠄁が進󠄁み、昭和六十一(1986)年に改定された「現代仮名遣い」では、つひにこの一文が削󠄁除されてしまひました。一方で、東北地方で「シ・ス」「ジ・ズ・ヂ・ヅ」の區別が曖昧なのに、東北人にとっての表音󠄁主󠄁義は排除されたのも、「現代かなづかい」の矛盾と呼んで良いでせう。

■「ち」と「じ」の對應への直感的󠄁な違󠄂和感は何故?
 歷史的󠄁かなづかひを常用する人に限らず、現代仮名遣いでしか書かない人でさへ、「地」「治」の讀みとして「ち」「じ」の對應は何となく氣持ち惡い、と思ふ人が少なからずゐます。それは何故でせうか。
 國語問題協議會では先月󠄁、『令和疑問假名遣󠄁 令和二年五月󠄁試行版』といふ本を出しました(實は本會のア氏による令和疑問かなづかひのウェブサイトで公開されてゐるかなづかひ便覽を本にしたものです)。册子版でもウェブサイトでも構󠄁ひませんが、148頁に「漢音󠄁と吳音󠄁の規則的󠄁な對應關係」といふ項があります。「治」は漢音󠄁/吳音󠄁が「チ/ヂ」で對應してゐる事がわかります(「地」はこれと同じ對應と言へませう)。他の漢字を見ても、「豆」が「トウ/ヅ」、「直」が「チョク/ヂキ」、「圖」が「ト/ヅ」、「⻝」が「ショク/ジキ」と、「サ行/ザ行」または「タ行/ダ行」で對應するパターンが結構󠄁ある事がわかります。「『ち』が濁った『ぢ』」は間違󠄂ひにしても、漢音󠄁と吳音󠄁が「サ行/ザ行」または「タ行/ダ行」といふパターンがよくあるので、何となく感ずるその「違󠄂和感」「直感」も「當たらずとも遠󠄁からず」と言へるかもしれません。ただし、それが「まぐれ當り」なのか、それとも「國語の自然な感覺」なのかは私もわかりません。
 ……と書くと、またもや國語の專門家やら國語マニアやらに「そんな規則なんてない。その規則があてはまらない字は澤山ある」と突っ込󠄁まれるかも知れません。先の資󠄁料にもある通󠄁り、「如」が「ジョ」(漢音󠄁)なのに「女」が「ヂョ」(吳音󠄁)など例外も少なからずあります。私は「百パーセント當てはまる規則」と書いた覺えはないので、くれぐれも「藁人形論法」はなさらぬやう。

■「簡單な說明こそ正確」とは限らない
 先のAとBの說明のやうに、「簡單な說明こそ正確」とは限りません。世の中は必ずしも單純には出來てゐません。多くの言葉を費やさないと正確に說明出來ない事はよくあります。そして、多くの言葉を費やすとなると、多くの人の理解を得るのに、より骨が折れるものです。
 「少々粗があっても單純明快な說明の方が良い」といふ意󠄁見もあるでせうが、それでも「難しいが、より正確な說明」は一往󠄁知っておくに越したことはありません。その方が、批判󠄁といふ「火」に耐えられる理論が育ち、實踐の更に強力な動機附けになるものです。


■宣傳:コミケで『令和疑問假名遣󠄁』『みんなのかなづかひ2023』を頒布します
 12月󠄁31日、場所󠄁は東京ビッグサイト東(配置番號 ポ44b)。(入場チケットが必要󠄁)。詳しくはこちらを御覽下さい。「はなごよみ」公式ブログ
posted by 國語問題協議會 at 01:00| Comment(0) | 押井コ馬

2022年12月24日

日本語ウォッチング(56)  織田多宇人

個人名儀の
「個人名儀の」と書かれてゐることを時々見掛ける。これは「個人名義」が正しいだらう。「義」も「儀」も音󠄁は「ギ」だが、訓は義が「よい」で、儀は「のり」である。義には「人道󠄁、わけ、ぎり、つとめ」、儀には「ぎしき、てほん、ならわし」等の意󠄁味があり、それぞれ「道󠄁義、義士、義勇兵、字義、意󠄁義、義理、義務」、「儀式、儀典、禮儀、行儀、婚儀」等の熟語を作る。「めいぎ」は、「名前󠄁、書類等の表面上の名前󠄁、名分、名として立てる義理」と言ふ意󠄁味だから、「個人名義」が正しいだらう。
posted by 國語問題協議會 at 11:30| Comment(0) | 織田多宇人