2018年06月04日

數學における言語(26) 日本語と哲学[U] 河田直樹

林秀彦氏は、平成11年に出版された『憎國心のすすめ』(成甲書房)といふ本で「かつて和辻哲郎も『日本語をもつて思索する哲学者よ、生まれいでよ』と、ほぼ絶叫に近い文體で書いた」と記されてゐますが、翌年出た長谷川三千子氏の『日本語の哲学へ』(ちくま新書)も、同じ言葉の引用から始まつてゐます。奇しくも、ほとんど同じ時期に全く接點のない二人の人物が同じやうなことを考へてゐたといふことですが、本連載のタイトルにもなつてゐる「日本語と數學」は少年時代から私の大きな關心事であり、哲學(philologia)と數學(mathematica)とは緊密に 境界線を接してゐると考へてゐる私にとつては、それは「日本語と哲學」の問題でもありました。
 長谷川氏の本は、多くの文獻からの博引傍證によつて詳細を極めたもので、特に後半の「ものとことの意味」の考察はまことに刺激的で、蒙を啓かれる思ひがします。しかし、私のやうな‘數學屋’にとつては、「日本語の哲学を目指す」こと自體が、そもそもよく理解できないことであり、なにか白々しく思はれ、和辻氏や林氏、それに長谷川氏のやうにそこまで力まずともよいのでは、とも考へてしまひます。といふのも、現代の日本の數學はやはり「古代希臘に始まつた西洋數學の受容によつて誕生してゐる」からで、これは否定しようもない嚴然たる事實です。
私にとつての「日本語と哲學の問題」は、もつと單純で素朴なものです。それは、日本語で書かれた(あるいは飜譯された)哲學書の言葉がときに意味不明で難しい、といふことです。勿論、私自身の語彙力の不足が一番の問題であり、哲學自體が元來、難解なのかもしれません。
しかしたとへば戰前の若者によつてよく讀まれたといふ西田幾多郎の『善の研究』を、高校1年の秋に讀み始めた私は、まづその冒頭部分の「經驗するといふのは事實其儘に知るの意である」といふところで躓いてしまいました。なぜなら、「知る」といふ言葉と「純粹經驗」とがそもそも矛盾するものに感じられ、西田がいつたいどういふ意味で「知る」を用ゐてゐるのか分らなかつたからです。また彼は第2章の終りの部分で「經驗は時間、空間、個人を知るが故に時間、空間、個人以上である」とも書いてゐますが、この場合の「知る」とはいつたいどういふ意味なのでせうか。また、私たちはしばしば「さうした方が合理的だ」とか「それは餘りに觀念的過ぎる」といつた言ひ方をしますが、實は私にはその「合理的」や「觀念的」といふ言葉の使ひ方もよく理解できません。「合理」はそもそもなにかと比較される概念なのでせうか。數學では「理」は「ratio(=比)」であり、「有理數(rational number)」といへば「整數比で表はされる數」、「無理數(irratinal number)」といへば「有理數でない數」と明快に定義されてゐて、「その數の方が有理的だ」といつた言ひ方はしません。また、「觀念」が「過ぎる」とは一體どういふことなのでせうか。私はどんなに觀念的であつても「觀念的過ぎる」ことはあり得ないし、それが惡いことだとも思つてゐません。私たちは「合理主義」と「便宜主義」とを、また「觀念的」と「空想的」とを混同してゐるのかもしれません。『日本人の思惟方法』(春秋社)の著者中村元は「第4章 非合理主義的傾向」の第1節を以下のやうに締め括つてゐます。「よく『日本人は紙上計畫のみで抽象論を述べるので困る』といふやうな批評が、日本人自身のなかからあらはれてゐる。しかしこのやうな批評は、じつは抽象性と空想性(非現實性)とを混同してゐるのであつて、このやうな批評の行はれること自體が、日本人のあいだに抽象的思惟といふものについて反省のないことを示してゐるのである」。
 まことに溜飲の下がる思ひのする的確な批判ですが、私たちはソクラテスがパイドロスに語つたやうに「ものの本性についての、空論にちかいまでの詳細な論議と、現實遊離と言はれるくらゐの廣遠な思索」とを懼れてはならないのではないのでせうか。「觀念的である」ことと「現實的である」こととは實は決して矛盾するものではないのです。
                   (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 15:05| Comment(0) | 河田直樹

2018年05月31日

『雨』 作詞:北原白秋 作曲:弘田龍太郎

雨がふります 雨がふる 遊びにゆきたし 傘はなし
紅緒(べにを)の木履(かっこ)も緒が切れた

雨がふります 雨がふる いやでもお家で 遊びませう
千代紙をりませう たたみませう

雨がふります 雨がふる けんけん小雉子が 今啼いた
小雉子(こきじ)も寒かろ 寂しかろ

雨がふります 雨がふる お人形寝かせど まだ止まぬ
お線香花火も みな焚(た)いた

雨がふります 雨がふる 晝もふるふる 夜もふる
雨がふります 雨がふる
posted by 國語問題協議會 at 13:58| Comment(0) |

2018年05月22日

「つたへること・つたはるもの」「陰」の氣を「陽」に着替へる(26) 原山建郎

「陰」の〈氣を變へる〉には、「陽」に〈着替へる〉だけでよい。
前回のコラムで、「好かれる人物」は「明るい・笑顔・やさしい・思ひやり」の持ち主で、あたたかい「陽」の氣(オーラ)を身にまとつてゐる、また「嫌はれる人物」は「自分勝手、わがまま、惡口・陰口、暗い・陰險・陰氣」な傾向があり、つめたい(冷たい・暗い)「陰」の氣を周囲に放つてゐる、と書いたのだが、六〇〜八〇歳代の高齢者のアンケートを讀み返してゐたら、「嫌はれる人物のイメージは、好かれる人物のイメージの正反對である」といふメモを見つけた。たとへば、「好かれる人物」の反對語(對義語)は、明るい→暗い・陰氣、笑顔→怒りつぽい、やさしい→意地惡、思ひやり→自分勝手・わがまま、のやうになる。

つまり、「好かれる人物」は、明るい笑顔、やさしい思ひやり、外に廣がるオレンジ色のオーラで、相手を暖かく包み込むイメージなのに對して、「嫌はれる人物」は、自分勝手でわがまま、意地惡で怒りつぽい、内に引きこもるダークグレー(暗灰色)のオーラが、相手を冷たく拒絶するイメージを漂はせてゐる。
大學の授業(コミュケーション論)のなかで、「好かれる人物≠ノなるこつはいたつて簡單です。明るい・笑顔・やさしい・思ひやりのある人間に變はるだけでいい」と話したところ、學生の一人から「ちつとも簡單ぢやない。相手がよい人なら自分も變はれるかもしれないが、いやな人だつたらとても無理です。そんなの僞善でせう」と抗議を受けた。そこで、二つのたとへ話をすることにした。

一つ目は、「〈自分の顔〉は、何のためについてゐるのか」といふ話である。
最初に、「皆さんは自分の顔を、自分で見たことがありますか?」と質問した。「はい、鏡で見てゐます」と答へたので、「それは〈鏡に映つた自分〉の顔です。自分の眼で直接見えるのは、鼻先と舌の先端、顔全体のほんの一部にすぎない。したがつて、自分では見られない顔は、實は他人に見てもらふためについてゐるのです」と話した。
すると、「そんなの屁理屈です」といふ女子学生がゐたので、「あなたは、なぜ外出前にお化粧をするのですか? 自分の眼では鼻先しか見えないのに……」と聞くと、「〈鏡に映つた自分〉の顔を見て、お化粧や髪型をチェツクします」と答へた。
そこで、「それは、鏡に映つた〈鏡に映つた自分〉の顔を見てゐる〈もう一人の自分〉がOKを出す行爲、つまり他人に見られてもよい及第點といふ判断であり、それは外出時の服装などの〈身だしなみ〉にも及ぶ」こと、また、「人間の心には、〈鏡に映つた自分〉を見てゐる〈もう一人の自分(本物の自己)〉がゐて、潛在意識のさらに奥底では〈嫌はれる人物〉ではなく、もちろん〈好かれる人物〉でありたいと、つねに軌道修正をはかつてゐる」ことについて話した。

もう一つは、「陰」の〈氣を變へる〉には、「陽」の氣に〈着替へる〉だけでいい、といふ話である。
東洋醫學でいふ「陰・陽」は、善惡二元的な概念ではない。温かい水は「陽」、冷たい水は「陰」、流れる水は「陽」、滯つた(凍つた)水は「陰」であるやうに、相手(周圍)に及ぼす〈はたらき&程度〉をいふ。
たとへば、明るく・やさしい「陽」のオーラ(氣)は〈暖かい〉オレンジ色だが、嫉妬の感情が昂じると、相手を焼き尽くす〈熱い〉真つ赤なオーラがメラメラ立ち昇る。
また、良好なコミュニケーションを拒む〈冷たい〉ダークグレー(暗灰色)のオーラは願い下げだが、興奮のあまり頭に血が上つた相手に鎮静(クールダウン)をうながす〈爽やかな〉水色のオーラなら、ときによい効果を発揮する。つまり、そのシーン(状況)に求められる「陰」、または「陽」の〈はたらき&程度〉を身にまとうことが重要なのである。

トイレ掃除(「陰」のシーン)を頼まれたときに、黒いTシャつに藍色のジーパンなら「いいわよ。任しといて」と言へるが、結婚披露宴(「陽」のシーン)に出席するパーティードレスだつたら「いやよ。勘辨して」となる。「陰」の黒いTシャつに藍色のジーパンで、「陽」の結婚披露宴に出席する氣にはなれない。
したがつて、「嫌はれる人物」の周圍囲に漂ふ「陰」の〈氣を變へる〉には、「好かれる人物」が身にまとつてゐる「陽」の氣に〈着替へる〉だけでよいのだ。この日の授業では、學生たちに「性格はなかなか變へられないが、行動はすぐに變へられる」といふひと言を追加した。

私たちは「好かれる人物」キャラを演ずる大物俳優、舞台は「嫌はれる人物」も登場するビジネスシーン、さて今日の舞台では「明るい・笑顔・やさしい・思ひやり」のうち、どのオーラ(氣)に着替へようか!
posted by 國語問題協議會 at 17:27| Comment(0) | 原山建郎