2018年08月04日

數學における言語(29)  無限思想への旅立ち

 「人生百年時代」などと言はれる昨今ですが、還暦を過ぎて自分の人生も後半に突入し、大袈裟ではなく「命旦夕に迫る」思ひを深くするやうになつて、結局自分はこの人生で一體何を欲し、何を望んできたのかを考へるやうになりました。勿論、若い頃からそんなことはいろいろと考へてきたことではあるのですが、結局最後に殘された切實な關心事とは何か?おそらく私にとり、それは「無限」の問題に盡きる、と言へるのかもしれません。そして「その餘のことはすべて人生の瑣事」といふのがいまの率直な實感です。そんなことを言へば、世間の多くの人にお叱りを受けるかもしれませんが、自分が「數學」を生業にしてきたことも、「數學」そのものをやりたかつたのではなく、子供のころから不思議だつた「無限」を考へるよすがにしたかつたためでもあります。數學の才能に早くから見切りをつけてゐた私は、ときに數學の授業中に吐き捨てるやうに「數學なんかどうでもいいんだ」と語ることもありました。全く恥知らずの所業です。
 數學者のダビッド・ヒルベルト(1862〜1943)は、「無限!ほかの問題で今まで人間精神をこれほど深く動かしたものはない。ほかの觀念で人間の理知をこれほど刺激して結果を生ぜしめたものはない。しかもほかの觀念で無限の概念ほど多大の純化を要するものはない」と語つてゐますが、正に至言といふ他はありません。
 古來、洋の東西を問はず「無限」は多くの人々を魅了してきましたが、漢詩の世界でも「盡きぬ想ひ」を詠んだものが多く見られます。たとへば唐の詩人張説(ちょうえつ)は彼の友梁六(りょうろく)を思つて「聞道神仙不可接/心随湖水共悠悠(聞くならく神仙接すべからず/心は湖水に隨ひて共に悠々たり)」とうたつてゐます。すなはち、左遷された友を俗世の人間には近づき難い「神仙世界」の住人になぞらへ、「大兄への思ひは、この湖水と同様、限り無く盡きない」と述べてゐるわけです。友や戀人、家族、そしてこの大自然への「無限の思ひ」は、多くの人たちの共感するところですが、しかしヒルベルトの語る「無限」、すなはち愚直な數學者たちの考へるそれは、張説の「限り無い思ひ」とは明らかに異なつてゐます。數學者たちの「無限」は、何よりもまづ「嚴密な論理的規定が求められてゐるもの」であり、それは決して單なる「漠漠とした想ひ」ではありませんでした。それが、ヒルベルトの語る「多大の純化」といふ意味です。
 よく私たちは「それは單なる神學論争にすぎない」といふ言ひ方をしますが、しかし私は數學における「無限」の論理的かつ徹底的な純化のためには、アウグスティヌス(354〜430)、ボエテイフス(489?〜524?)、アヴェロエス(1126〜1198)、トマス・アキナス(1225〜1274)、ニコラス・クザーヌス(1401〜1464)に代表されるやうな古代から中世にかけての「神學論争」がどうしても必要だつたと考へてゐます。現代人にとつては、ほとんど徒勞かつ無意味とも感じられる「『無限の神』の存在證明」への熱情こそ、「純化された無限」を生み出したとも言へます。
 「無限の學」ともいふべき「集合論」の創始者でゲオルグ・カントル(1845〜1918)には『超限集合論』といふ著作があります。その日本語譯の譯者の一人である村田全(たもつ)氏はその解説で、「あへて私見を述べるならば、カントルは現代數學の創始者の一人、あるいは單に純粹な數學者といふよりも、中世末期から近世にかけての數學−哲學の歴史の中にしばしば見られる『形而上學的數學者の最後の一人』とよぶはうがよいように思はれる」と述べられてゐます。カントルは、「自然數全體のつくる無限」と「實數全體のつくる無限」とには、その無限の程度に違ひがある、と常人には思ひも及ばぬことを主張し始めた數學者で、そのために重度の躁鬱病になり、ハレ大學の精神病院への入退院を繰り返したと言はれてゐます。それこそ、カントルの主張は一般人には「~學論爭」とも受け取られかねないものですが、彼の‘~學’がこんにちの現代數學の礎になつてゐることは間違ひないことです。私が、中世の「~學的無限論」を考へてみたいゆゑんです。

(30)古代希臘の無限思想(T)
 プラトン後期の對話篇に『ピレポス−快樂について−』(田中美知太郎譯)といふ作品があります。これは、プラトン67歳前後の頃(紀元前360年頃)に書かれたもので、「思慮(知)と快樂のどちらが、究極の『善』たるものの自足性を有してゐるのか」といふ問答の記述です。すなはち、「快樂最善説」を支持するピレポスとそれを擁護するプロタルコス、それを批判する「思慮」派のソクラテスとの、全部で42章からなる對話なのですが、ここで私が問題にしてみたいのは、この對話篇のさうしたメインテーマではなく、この議論の土台となる前半部分にある「一と多についての方法論的な考察」についてです。議論するにあたつて、まづ「議論の方法」について共通了解に達しておかう、といふわけです。
 「一と多」といふ言葉から容易に連想されるかと思ひますが、これはひと言で言へば「有限性と無限性」の問題です。「快樂」について議論するに先立つてこの二つを取り上げてゐるのはなかなか示唆的で、いささか飛躍しますが、このテーマは18世紀のあの悪名高いマルキ・ド・サド、「ジル・ド・レー」を扱つた『彼方』の著者である19世紀のユイスマンス、そして20世紀の『エロティシズム』の哲学者ジョルジュ・バタイユ(彼には『ジル・ド・レ論』がある)たちの根本テーマに通底してゐると私は密かに思つてゐます。若かりし頃、數学の「無限と連續」の問題を考へてゐたとき、數学屋でありながらこの問題はいはゆる“數學”だけには納まりきれないものを内包してゐると強く感じてゐた私は、バタイユの『エロティシズム』を讀んで、「無限と連續」について我が意を得たり、と“腑に落ちた”記憶があります。これについてはいづれこの連載で議論の俎上にのせてみたいと考へてゐますが、いまは深入りしないことにします。
さて、ソクラテスは第12章で「~は存在の一部を無限として示し、他を限(もしくは限度)として示した」と述べてゐますが、彼は「無限」をどのやうに考へてゐたのでせうか。同じ12章には「終結の生ずるのを許さない」とか「一定量であることを許さない」とか「いつも前進してゐて止まることなく」といつた言葉があり、そして「およそもつと多くもなれば、もつと少なくもなるとわれわれの目に明らかに見えるもの」が無限性であると結論してゐます。
さらに、この世界の存在(在るもの)を4つに部類分けして、第一類が「無限性」、第二類が「限度(有限性)」、第三類が「無限性と有限性の二つから混合され、生成させられた存在」、そして第四類が「この昆合と生成の原因となるもの」としてゐます。
ソクラテスが言ふ第一類の「無限性」とは、「ぺラス(終り、限定、限界)」の否定である「アペイロン」の意味で、これはむしろ「無限」と言ふよりは「無限定」といふ言葉を用ゐいた方が分かり易いかもしれません。“無限”と言へば、高校の數学の授業で“無限數列”とか“無限級數”といつた言葉を習つたことがあるために、私たちはそこから連想される“近代的な極限としての無限概念”を想起しがちですが、翻譯で用ゐられてゐる「無限性」とは「無限定性あるいは非限定性」と理解しておくべきです。とは言へ、ソクラテスは「いつも前進してゐて止まることなく」といふ言ひ方もしてゐて、ここには自然數の「無限進行」のやうな意味合ひも含まれてゐると言へなくもありません。これはアリストテレスの「可能無限、潜在無限」に通じるもので、彼の『自然學』第3巻の第6章には「一般に無限なるものは、その或る一つに繼いで他の一つがと絶えず相繼いでとられてゆく仕方で、ただし、とられてゆくその一つ一つは常に限られてゐるが、しかもその一つは常に他と異なつてゐるといふやうな仕方で、存在する」(出隆・岩崎充胤訳)とあります。
 アリストテレスが、ソクラテス、プラトンの「無限論」を緻密化して“無限”を「可能無限」と「現實無限」に分類したことはよく知られてゐますが、いまはこの問題は後回しにして、次回も『ピレポス』の“無限論”について考へていきます。    (河田直樹・かはたなほき)

posted by 國語問題協議會 at 17:48| Comment(0) | 河田直樹

2018年08月01日

われは海の子

   われは海の子  文部省唱歌

一、我は海の子白浪の/さわぐいそべの松原に
  煙たなびくとまやこそ/我がなつかしき住家なれ。
二、生まれてしほに浴して/浪を子守の歌と聞き
  千里寄せくる海の氣を/吸ひてわらべとなりにけり。
三、高く鼻つくいその香に/不斷の花のかをりあり。
  なぎさの松に吹く風を/いみじき樂と我は聞く。
四、丈餘(じょうよ)のろかい操りて/行手定めぬ浪まくら
  百尋千尋(ちひろ)海の底/遊びなれたる庭廣し。
五、幾年(いくとせ)こゝにきたへたる/鐵より堅きかひなあり。
  吹く鹽風(しほかぜ)にKみたる/はだは赤銅さながらに。
六、浪にたゞよふ氷山も/來らば來れ恐れんや。
  海まき上ぐるたつまきも/起らば起れ驚かじ。
七、いで大船を乘出して/我は拾はん海の富。
  いで軍艦に乘組みて/我は護らん海の國。
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2018年07月21日

「つたへること・つたはるもの」28 原山建郎

小池都知事のカタカナ語、日本語にしてみました。(2016年10月11日)

豊洲市場の移轉延期・盛り土問題、東京五輪の開催費用檢證・會場施設見直しなど、都政改革本部の調査チームを立ち上げた小池百合子都知事は、毎週末金曜日の定例記者會見、九月二八日の初都議會における所信表明演説などを通じて、豊洲市場の環境汚染懸念、ゼネコンとの官製談合疑惑、JOC(日本オリンピつク委員)の放漫運營體質にチェックを入れてゐる。
――と、ここまでは誰もが拍手喝采なのだが、小池都知事が多用するカタカナ語は「意味がよく分からない」と困惑する人が多くゐて、はなはだ評判が悪いのだ。これらのカタカナ語を日本語にしたらどうなるか。
☆都議會での「所信表明演説」/★毎週末金曜日の「定例記者會見」で用ゐられたカタカナ語を抜き出して、小池都知事が大好きなカタカナ語(英語の綴り:日本語翻訳:同義語・類語などの意譯)を見てみよう。
いづれも拙い日本語私譯なので、萬が一、誤譯・迷譯があつたらごめんなさい。

☆常に目的は、「都民ファースト(first:第一優先)」の都政の構築にあります。/☆「ワイズ・スペンディング(wise spending:賢い支出:賢いお金の使ひ方)」といふ言葉がありますが、豊かな税收を背景に、税金の有効活用の觀點が損なはれることがあつてはなりません。/☆日本の成長のエンジン(engine:原動機:原動力)として世界の中でも輝き續けるサステイナブル(sustainable:存續・持續・成長可能な)、持續可能な首都・東京を創り上げることであります。そのためにも、「セーフシティ(safe city:安全な都市)」「ダイバーシティ(diversity:多樣性:多樣性を受容する社會)」「スマートシティ(smart city:環境に配慮する都市)」の三つのシティ(city:都市 ※ただし、diversityはdi+verse+tyが語源で発音は同じだが、都市の意であるcityではない)を實現し、東京の課題解決と成長創出に取り組んでまゐります。/☆二〇二〇年の大會は單なる一九六四アゲイン(again:再現:夢よもう一度)ではなく、成熟都市であり、世界の最先端都市である「TOKYO」を世界にアピールする大會にしなければなりません。/☆ハード(hardware:設備・施設)面のレガシー(legacy:遺産:物理的な遺産)だけでなく、ソフト(software:規則・運用)面のレガシー(legacy:遺産:技術的・文化的な遺産)を構築いたします。/☆たとへば、フィンテック(fintech:情報通信技術を使つた新たな金融サービス)分野をはじめとする海外の金融系企業を誘致するため/★片仮名ばかり並べて申し訳ないのですが、企業で言ふところのコンプライアンス(compliance:法令順守:法律や倫理に則つた企業活動)です。といふことで、だから内部統制(從業員や會社の資産の管理統制)であるとかガバナンス(governance:統治:経営の管理統制)、誰が管理をして、誰が決定をして、【※これは「企業(corporate)で言ふところ」に續く文脈なので、「内部統制であるとかガバナンス」は、コーポレートガバナンス(經營の管理統制)・内部統制(從業員や會社の資産の管理統制)をいふ】/★手が下がりつつあつて、もうウイズドロウ(withdraw:手を引つ込める)してしまつてゐる/★先ほど私が、ホイッスルブロワー(whistle-blower:警笛を吹く人:不正行爲の内部通報者)の話をさせていただいわけでございまして、匿名、實名を問はず……。

カタカナ語が埋め込まれた「前後の文脈」から難解な經營英語を私譯したのだが、もしかすると、これはカタカナ語を多用して記者の質問を「煙に巻く(to create a smokescreen)」政治的手法なのかもしれない。英語はもとより、アラビア語にも堪能な小池都知事は、「頭がよい」を意味する英語、スマート(smart:頭のよさ・小利口)、クレバー(clever:頭が切れる・聡明)、ワイズ(wise:知的な賢さ・博識)でいへば、スマート&クレバーだが、「都民ファースト」を目指す語彙力はまだワイズの域まで到達してゐない。

まど・みちをの詩、『がいらいごじてん』は當意即妙の「ひらがな語」譯で、ユーモアがある。◆ファッション=はつくしょん/ア ラ モード=あら どうも/ミニ スカート=目に すかつと/ピックルス=びつくり酢/マロン グラッセ=まるう おまつせ/トイレ=はいれ/ボクシング=ぼく しんど。
それでは小池都知事の新造語、ライフ・ワーク・バランス(life-work-balance:生活と人生の調和)を「ひらがな語」にしてみる。◆ライフ・ワーク・バランス=あーした 天気に なあれ
おあとがよろしいようで……。
(武藏野大學非常勤講師『ゴム報知新聞』電子版コラム (2016年10月11日)


posted by 國語問題協議會 at 12:06| Comment(0) | 原山建郎