2017年05月05日

歴史的假名遣事始め (二十九) 市川 浩


クイズで遊ぶ歴史的假名遣(二十九) 平成二十九年五月一日

先月のクイズ解答
問題
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。

歴史的仮名遣が学問の成果に拠っていることは(中略)認めるにやぶさかではない。だが歴的仮名遣いじたいが学問的合理的であるか(中略)は別問題であろう。換言すれば、現代仮名遣いにも学問的合理性を認める余地があるということである。
それになにより、仮名遣いを議論するときに、その優劣の判定に学問的合理性が必要なのか(中略)。誤解をおそれずにいえば、わたしは仮名遣に限らず、「規範」というものに学問的合理性や正確性は必ずしも必要とは考えない。(「かなづかい入門」11頁)

この主張に對する反論の一例を擧げます。

茲には二つの論點があります。一つは「現代仮名遣い」にも學問的合理性があり、歴史的假名遣を凌駕するのか、もう一つは假名遣を「規範」と見る時學問的合理性が必要なのかといふ問題です。
先づ現代假名遣に學問的合理性が十分あるかといふことですが、告示から十年ほどは、現代假名遣が合理的であり、それに反して歴史的假名遣が如何に不合理なものであるか熾んに喧傳されました。しかし其の根據は「話し言葉の記録用に表音文字を中心とした書き言葉」といふ概念に基く西洋言語學にあり、其れは其れで一つの「學問的合理性」があると言へますが、日本語に無條件では適用できないものがあり、逆に現代假名遣の不合理性が徹底的に暴かれたのです。特に決定打となつたのは言ふまでもなく福田恆存先生の「私の國語教室」ですが、本書では全く觸れず、「參考文獻」にすら載つてゐません。
次に假名遣は法律とは異る「規範」であるといふ概念には、それが「文化」の所産であるといふ限り、私も贊成です。何故なら文化的規範は法律とは異り、文化として形作られ、長い年月の世代を經て傳承して來たものだからです。歴史的假名遣は當に漢字傳來以來、日本語の書き言葉として長い歴史と共に發展して來たもので、全ての時代に於ける書き言葉の表現を可能としてゐます。しかし現代假名遣は西洋言語學を表面的に日本語に應用したものに過ぎず、發音が變化する毎に改訂しなければならない、つまり「現代」にしか通用しないのです。恰度世相に併せて改正が必要な「法律」に同じで、「規範」ではないのです。

練習問題
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。

文字は元来保守的であるということ、仮名は発音の拘束を比較的こうむらないということ、此の二の属性が旧来((注)發音變化前)の表記を維持させるのである。
だが仮名というものは、純粋な音節文字として発明された。それが仮名の最大の特性でもある。したがって、発音変化の影響を受けるのは避けられない。そして、発音の拘束から自由であるということが、逆接的に作用すれば、(中略)当然そういう((注)「かは」(川)→「かわ」など)表記を可能にする。(中略)一つのことばは一通りの発音であるが、表記は二通り、ということである。(「かなづかい入門」23〜24頁)

posted by 國語問題協議會 at 10:33| Comment(0) | 市川浩

2017年04月28日

きゃりこの戀(46)

オスカー:
 []遠き別れに堪へかねて この高樓(たかどの)に昇るかな
  悲しむなかれ我が姉よ 旅の衣を調(ととの)へよ
きゃりこ:
 聞いたことあるけど、綺麗な歌だね
 でも「悲しむなかれ我が友よ」だつたと思ふんだけど。「姉」ぢやなくて。
オスカー:
 「惜別の歌」といふのですが、もともとは、島崎藤村の詩なのです。タイトルも「高樓(たかどの)」で、全部で八聯。内容も、姉が嫁いで行くのを妹が悲しんで送る歌なのです。それを、戦時中に中央大学の学生が、学徒出陣に出て行く友人を送る歌にして曲を附け、「惜別の歌」といふタイトルに變へました。そのとき、歌詞も「我が姉よ」も「我が友よ」になつてしまひました。僕は藤村が好きだから、原文で歌つてゐます。
 歌ふときの歌詞は「惜別の歌」としては、三番または四番までだといふことになつてゐますが、「高樓」としては、原文どほり八番まで歌つてもいいでせう。
 さて、二番です。
 []別れといへば昔より 此の人の世の常なるを
  流るる水を眺むれば 夢恥づかしき涙かな
きゃりこ:
 確かに、出陣の餞(はなむけ)といふには餘りにも女性的な歌詞だね。
 なるほど、なるほど、雁井さんのおかげで、おバカでも意味が分かる。
 「昔から愛する人と別れなければならなくなる例はいくらでもある。水が流れるやうに世の中は移つて行くのだ。それを考へると、お姉ちゃんとの別れに涙を流すのは恥づかしいことなんだ」
 うううん。寧々みたいな鬼姉でも、別れるとなると悲しいんだらうな。それにしても、現代では、嫁いだつていつでも會へるんだから、そもそも嫁ぐのと別れるのと關係がないんだね。寧々、早く嫁に行つてしまへ。
 ところで、「夢恥づかしき」の「夢」つて何?
オスカー:
 「ゆめ忘るるなかれ」といへば「決して忘れてはいけない」。「夢にも」といふことから來てゐるのですが、副詞として使はれるやうになりました。否定文に附いて、「決して〜ない」の意味ですが、藤村はこれを「決して泣いてはいけないのに泣いてしまつたのだから恥づかしい」といふ意味で肯定の文に轉用したのです。
きゃりこ:
 そんなに勝手に轉用してもいいの?
オスカー:
 藤村くらゐ偉くなると何をしてもいいのです。芭蕉も文法的な間違ひをしてゐますが、芭蕉が間違へたために、それが正しい用法となつてしまつたといふ例があります。
きゃりこ:
 ずゐぶんいい加減だね。
オスカー:
 国語といふのは文学者のリーダーシップで作り上げられて行くのですから、それはかまはないのです。それよりも、戦後の国語改革で、文部省や学者たちが、「副詞は假名で書くのを原則とする」などといふ規則を勝手に作つてしまつたことのはうがずつとひどい國語破壊なんですよ。
きゃりこ:
 なるほどね。政府主導で規制されたために、日本語は崩れて來たんだ。それに追従した学者たちも情ない連中だね。
 「夢恥づかしき」も文部科学省の命令では「ゆめ恥づかしき」としなきやいけないことになる。「夢恥づかしき」と書いたら、犯罪を犯してることになるんだ。
オスカー:
 []君がさやけき目の色も 君紅(くれなゐ)の脣も
  君がみどりの黒髪も またいつか見むこの別れ
きゃりこ:
 三番になると、もう完全に女との別れになつてゐるぢやない。出陣を送る歌ではないね。男の脣が紅だつたら気持悪い。美少年だつたらいいけど。
オスカー:
 一説によると、作曲者が勤労動員で工場で働かされてゐたときは、女学校の生徒もいっしょにゐたりしてたので、実感が籠つてゐたとも言ひます。
 この歌、いろんな歌手が歌つてゐます。インタネットで見ると、小林旭が歌つてゐるのがやたらにたくさん出て來ます。その中で「惜別の歌 小林旭 リメイク 動画」で検索すると、山の頂上の映つた画面が出て來ます。これが背景の絵が一番美しいので僕は好きです。
 山の頂上にある城跡の写真です。お城は廃却されてしまつたのですが、石垣がかなり完全な形で殘つてゐる。兵庫縣朝來(あさご)市和田山町にある「竹田城」の古跡なのですが、山の上にあるので、「天空の城」と呼ばれてゐます。雲海が城の下の方に見えるのですから、そのロマンティックなことは譬へやうもありません。今度訪ねて行つてみようと思つてゐます。
きゃりこ:
 そんな素敵な所がなんでもつと有名にならないのかしら。
 ちょっと、PC貸してね。インタネット見てみるから。「リメイク」って何だ。意味分からないけど、remakeのことだらうね。
 あ、これか。ひゃああ、綺麗な石垣だね。歌聞かせてね。
オスカー:
 一番二番が城跡だけど、三番の背景の絵がまたいいですよ。
きゃりこ:
 んみゃんみゃんみゃ。凄い美人の絵が出て來たね。オスカー先生の好きなのはこれだつたのか。「君がさやけき目の色は」では目を映し、「くれなゐの脣」では脣だ。リップスティック持つてる絵だ。いやあ、色っぽい女性だね。
 あんまり美人だから絵かと思つたら、やつぱり寫眞だね。知らない顔だから、藝能人ぢやないよ。
オスカー:
 実はこの女性が雁井さんにそっくりなんですよ。
きゃりこ:
 ぱみゅぱみゅぱみゅぱみゅ。この人二十代前半だよ。雁井さんっていくつなの? お世辞言はされる可哀想なオスカー先生。
オスカー:
 雁井さんに逆つたら、僕もきゃりこさんも消されてしまふ運命なのですよ。そしたら、次からは、寧々さんと優ちゃんの對談になつて、二人の間に愛が芽生えることになるでせうね。
きゃりこ:
 いやだあああああ。私も雁井さんにお世辞言ふよ。





posted by 國語問題協議會 at 21:04| Comment(0) | 雁井理香

2017年04月22日

訓讀 原山健郎

武蔵野大學佛教文化研究所の定例研究会で、『ひらがなが啓(ひら)く「ほとけ」の世界』と題する研究發表を行つた。
この發表は、六世紀半ば、中國から朝鮮半島を經由して、わが國に傳來した佛教の経典にある「佛陀(ぶつだ)(<覺者>を意味するサンスクリット語buddhaの音寫)」を、日本では音讀の「ブつダ(呉音)」だけでなく、なぜ早くから和語で「ほとけ」と訓讀したのかを明らかにし、さらに上代日本(倭國)の多神教的な原始信仰に代表される習俗が外來宗教である佛教を比較的穏やかに受け入れた理由のひとつに、インド發中國経由の<覺者(佛陀)>といふ宗教的概念と「ほとけ」といふ和語の發音体感(習俗としての言語的感性)が時空を超えたシンクロニシティを起こし、わが國に佛教的パラダイムシフト(日本的習俗の佛教化)をもたらした、と主張するものである。

中國における「buddha」の音寫には、「佛陀」以前にも「浮屠(フト)・浮圖(フト)・佛圖(ブト)」などの用例があり、日本で「フト(ブト)」がなまつて「ほとけ」と転用されたといふ説もあるが、それだけでは和語である「ほとけ」の民俗學的なアウトラインがいまひとつスッキリしない。
そこで、それまで話しことば(口承)であつた和語を、漢字を假借した萬葉假名で表記することに成功し、千五百年以上經つた現在も用ゐられてゐる「ひらがな」が、上代日本人のメンタリティーを今に傳へてゐるといふ假説を立てた。

「ほとけ」といふひらがなのイメージには、<とく/とける>、<ほどく/ほどける>、あるいは<ゆるす/ゆるめる>など、さまざまなしばり(呪縛)やこだわり(執着)、こわばり(緊張)から心身を<ときはなつ(解き放つ)>佛教的な救濟思想につながるものがある。
野口三千三さんは、『野口体操 おもさに貞(き)く』(柏樹社、一九七九年)で、和語の「ほ」の身体感覚、なかでもとくに「ほどき」の自動詞形である「ほどけ」に注目してゐる。
【「ほぐし」は「ほどき・ほごし」と同じコトバである。「ほどき」はもともと「ほとき」と同音で、「ほ」の状態になるやうに解くことである。(中略)「ほどき」の自動詞形は「ほどけ」で、もともとは「ほとけ」であつたこの「ほとけ」こそ、実は「佛」の語源なのである。そこで私は「からだをほぐすことを手掛かりとして、佛とは何かを探り求める營みを体操といふ」と本氣で考へ、いろいろの動きを探り検(ため)してゐる。】
(同書八三〜八四ページ)

他動詞の「とく・ほどく」には、靴の紐(ひも)を自分で意識的にほどくといふ努力(自力)のニュアンスがあり、自動詞の「とける・ほどけ(る)」には、紐が自然にほどけたといふ無意識(他力)のイメージがある。
ひらがなの發音体感を分析すると、<ほとけ>の「ほ」音には、漢字の「炎/穂/帆/火/峯/誇(ほこ)る/賞(ほ)める/惚(ほ)れる」、ひらがなの「ほかほか/ほくほく/ほのぼの/ほれぼれ/ほやほや/ほんわか/ほんのり/ほのか/ほのめく」など、天に向かつて展(ひら)き伸び、押し上げられる、気体的な陽(ひ)だまりの暖かさがあり、<ゆるむ>の「ゆ」音には、漢字の「湯/油/愈/悠/湧/豊/夢/悠々/勇気/愉快(ゆくゎい)/寛(ゆる)やか/許(ゆる)す/緩(ゆる)める」、ひらがなの「ゆるゆる/ゆつたり/ゆらゆら/ゆらす/ゆるむ/ゆるす/ゆらぎ」など、内在の生命が浮き出て、豊かに湧き出る、液体的なお湯の温(ぬく)もりがある。

ここで、なぞかけをひとつ。
インド發中國經由の漢字「佛陀」とかけて、ひらがなの「ほとけ」と解く。その心は、わが國(日本)では「ごく(極)らく(楽)」になる。お後(あと)がよろしいやうで。
(武藏野大學非常勤講師『出版ニュース』コラム Book Therapy no.31)
posted by 國語問題協議會 at 21:33| Comment(0) | 原山建郎