2021年06月11日

數學における言語(68) 中世~學論爭と數學への序曲−宗ヘは必要󠄁か(U)

 ラッセルは@の證明法について「もしあらゆるものが原因を持たなければならないとするならば、そのときは、~にも原因がなければなりません」と述󠄁べ、さらに「世界には初めがあつたのだと想像する理由はないし、そして初めがなければならないといふ考へは我々の想像力の貧困によるもの」と斷定して、その證明法を棄却してゐます。
 A〜Dの證明法についてもラッセルは、それを誤󠄁謬だとして棄ててゐるのですが、その要󠄁點を少し脚色して簡單にまとめると、以下のやうになります。
A:自然法則が~の存在の證しだとすると、~自身も法則に從はなければならないので、この證明は矛盾で誤󠄁りである。
B:この世は~の意󠄁向によつて創出された最善の世界で、それが~の存在の證しだとしても、現實を觀察すると承服󠄁し難い。
C:善惡が~の存在の證しだとしても、善惡自體は~の命令とは別問題であると考へられるので、この證明は誤󠄁りである。
D:~の存在はこの世に社會的󠄁正義を齎すために必要󠄁といふ主󠄁張はこの世の不公平󠄁を考へると滑稽であり、認󠄁め難い。

 これはラッセルの講󠄁演「なぜ私はキリストヘ徒ではないか」で語られた內容で、1927年にロンドンのワッツ出版社より刋行されました。ラッセルはこの講󠄁演の最後に「キリストヘの宗ヘ、ヘ會、あらゆる古いヘへに反對して、(近󠄁代になつて)のし上がつてきた科學の助けによつて、それらの事(古いヘへ)を少しは支配し始めることができるやうになつた」と語り、さらに次󠄁のやうなことも述󠄁べてゐます。
~といふ槪念のすべては、古代東洋の專制主󠄁義から出た槪念です。それはまつたく自由人には相應しくない槪念です。ヘ會で人々が自ら謙󠄁り、自分たちは慘めな罪人であるとか、さういつたやうなことを言ふのを聞くとき、それは輕蔑すべきもので、自尊󠄁心ある人間には値しないやうに見えます。

 いかにも“自由人”に相應しい、ラッセルのアッケラカンとした物言ひですが、要󠄁するにラッセルは、宗ヘ自體の內包󠄁する“迷󠄁妄󠄁”をC掃󠄁否定して“科學的󠄁な自由な知性”を案內役として人生を步むべきだ、と講󠄁演を締めくくつてゐるのです。いまの私なら、「ラッセル先生、大丈夫ですか?」と皮肉の一つも言つてやれるが、これを讀んだ當時の私は實はかなり困惑してゐました。といふのも、若い頃“基督幼稚園”に勤務してゐた母の影響もあつて、私は「宗ヘは必要󠄁」とぼんやり感じてゐて、さらに當時ラッセルの『數理哲學序說』に心醉してゐたからです。
 恥を承知で言ふと、この本の餘白に少年は「今のぼくは錯乱している。1969・8・25」と記してゐます。私は、翌󠄁月、原子力科學者ダグラス・クラーク著『再び宗ヘは必要󠄁か』(荒󠄁地出版社、相川高秋譯)を讀んで、少しはその“錯亂”を鎭めることができましたが、その後長い間、ラッセルといふ“知識人”に蟠りと不信感を抱󠄁いてゐました。このラッセルに對する懷疑を完全󠄁に拂拭できたと感じたのは、sc恆存の「自由と平󠄁和−ラッセル批判󠄁」といふ昭和37年に發表された論文(『sc恆存全󠄁集第五卷』)を讀んだときです。恆存は次󠄁のやうに述󠄁べてゐます。
ラッセルの哲學は論理學に還󠄁元され、彼の論理學は數學的󠄁論理學に還󠄁元され、さらに、それは物理學的󠄁論理學に、といふよりは物理學そのものに還󠄁元されてしまふ。それは論理的󠄁・物理的󠄁にのみ完結しようとして、その完結を脅す行動の世界にみづから近󠄁附かうともしなければ、それを寄せ附けようともしない。

 まつたくその通󠄁りで、ラッセルは社會的󠄁、政治的󠄁問題をすべて數學的󠄁論理に還󠄁元しようとして、そこに還󠄁元できない“人間の問題”は打ち捨󠄁ててしまつてゐます。そして、ラッセルの轉落は「自由そのものを外在化󠄁し、生そのものを目的󠄁化󠄁して、價値そのものを否定した」ところに始まつてゐました。「價値そのものの否定」は言ふまでもなく、彼の「宗ヘの否定」のシノニムでもありました。   (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 13:30| Comment(0) | 河田直樹

2021年06月05日

國語のこゝろ(7)「『正しい言葉は政府が決める』とは限らない」/押井コ馬

【今回の要󠄁約󠄁】
@本やヘ育の普及󠄁により、言葉の決まりを統一する必要󠄁に迫󠄁られてきました
A言葉の決まりを國の認󠄁める權威團體が決める場合(フランス語等)もあれば、慣習󠄁が力を持つ(英語等)場合もあります
B「マスメディア」と「マナー講󠄁師」と云ふ「政府ではない權力」も忘󠄁れてはなりません

【主󠄁な漢字の新舊對應表】
權(権) 團(団) 體(体) 舊(旧) 對(対) 應(応) 圓(円) 變(変) 價(価) 國(国) 學(学) 讀(読) 會(会) 佛(仏) 經(経) 殘(残) 擧(挙) 驗(験) 點(点) 寫(写) 效(効) 聽(聴) 來(来) 飜(翻) 譯(訳) 辭(辞) 實(実) 關(関) 辯(弁) 默(黙) 樣(様) 圍(囲) 廣(広) 單(単) 數(数) 傳(伝) 專(専) 亂(乱) 聲(声) 從(従) 假(仮) 繼(継) 擇(択) 兒(児) 廢(廃) 犧(犠) 拂(払) 乘(乗) 澤(沢) 嚴(厳) 獨(独) 擴(拡) 勞(労) 禮(礼) 條(条) 發(発) 賣(売) 氣(気)

■なぜ言葉の決まりが必要󠄁になるのか
 今回は主󠄁に書き言葉の決まりについて說明していきます。
 ペンや紙が百圓ショップで安く買へる現代と異なり、古代は石に文字を刻むにしても、パピルスや羊皮紙や木簡に墨で書くにしても、大變高價なものでした。庶民のヘ育の度合については國によって差があったでせうが、「文字を學んで讀み書きするのは王族や學者だけ」と云ふ社會も少なくありませんでした。
 そんな世の中でも、「書き方のガイドライン」を定める必要󠄁性に迫󠄁られる事がありました。遠󠄁く離れた國との間で商取引をしたり、政府間で手紙を遣󠄁り取りしたり、(ユダヤヘやキリストヘの聖󠄁書、佛ヘの經典のやうな)宗ヘ的󠄁書物を書き殘したりする上で、「標準的󠄁な書き言葉」がある事は大いに役立ちました。中國では「科擧」がありましたが、漢字の標準的󠄁な字形を定めた事で、試驗の採󠄁點をしやすくなりました。印刷技術󠄁のない時代は「寫本」といって人間が手で書き寫して本を作ってゐましたが、寫し誤󠄁りがなく品質の高い寫本を作る事が求められました(たとへば「本を他の人に音󠄁讀させ、それを聽きながら書く」と寫し誤󠄁りが容易に起󠄁こったものです)。
 近󠄁代になると、「標準的󠄁な書き言葉の決まり」が更に重要󠄁になっていきました。「印刷技術󠄁の發達󠄁」により多くの人々が本を手にする時代が來ましたし、書き言葉の決まりがある事は出版の效率󠄁化󠄁に役立ちました。「庶民へのヘ育の普及󠄁」により、國民皆が同じ國語を讀み書き出來るやう、全󠄁國統一カリキュラムによる國語ヘ育が必要󠄁とされ、書き言葉の決まりも次󠄁第に整備されていきました。「キリストヘの布ヘ」特に「プロテスタントの布ヘ活動」では一般信徒一人一人が聖󠄁書を讀む事を重視したので(それまでは會堂やヘ會で誰かが聖󠄁書を音󠄁讀して、他の信徒はそれを聽くものだった)、聖󠄁書を飜譯する下準備として、まだ文字のない言語の書き言葉の決まりを作ったり辭書を作成󠄁する事もありましたし、それがその言語の書き言葉の事實上の標準となる事もしばしばありました。

■言葉の決まりは誰が決める
 「『正しい言葉』は政府や國の認󠄁める權威團體が決めるもの」と思ってゐる人は多いものです。日本でも平󠄁成󠄁13(2001)年まで「國語審議會」があり、私達󠄁の日常使ふ「常用漢字表」「現代仮名遣い」がそこで決められました(現在は文部科學省に設置された「文化󠄁審議會國語分科會」に移行)。外國語も、たとへばフランスで1635年に設立された「アカデミー・フランセーズ」のやうに、權威ある團體が言葉の標準を定める事があります。
 一方、言葉の標準を定める權威團體が存在しないケースもあります。書き言葉ではなく話し言葉ですが、日本語の「關西辯」はどないですか……もとい、いかがでせうか。吉本興業とか京キのどこかの組合が「標準關西辯」を決めた、なんて話は一度も聞いた事がありません。それでも「誰も『正しい關西辯』の決まりを決めてゐないんだから、どう使ってもいいはずだ」と云ふわけにはいきません。「『をぢはん』と『をばはん』」なんて言はうものなら、關西人に「何でも『はん』を附ければいいものではない。『をぢはん』ではなく『をっさん』が正しい關西辯だ」とすぐに指摘されますから、「正しい關西辯」と云ふ「暗󠄁默の決まり」がどこかにあることはわかります。同じ「來ない」を意󠄁味する言葉にも「けえへん」「きいひん」「こおへん」「こやん」「こん」等と樣々あり、統一されてゐませんが(良く言へば「許容範圍が廣い」)、「きいへん」と言はうものなら似非關西辯だとすぐばれてしまひます。
 書き言葉に話を戾すと、「英語」は「言葉の標準を定める權威團體が存在しない言語」の代表例です。しかし、「誰も『正しい英語』の決まりを決めてゐないんだから、どう使ってもいいはずだ」とか「これから俺が日本人にもわかりやすい決まりを作って決める」と云ふわけにはいきません。單數形の「あなた」についてYou wasn't thereと書かうものなら、weren'tと直されます。やはりどこかに「正しい英語」と云ふものがあるわけです。それは英語圈で英語を學んできた人々の間の「傳統」とか「暗󠄁默の諒解」と云ふものでせうし、それを明文化󠄁した「辭書」も「正しい英語」を知る手がかりになります。
 このやうに、書き言葉の決まりを「政府や國の認󠄁める權威團體が決める」場合もあれば、さうでない場合もあります。「政府や國の認󠄁める權威團體が、專門家による國語の整備案を採󠄁用する」のか、「國としては決めてゐないものの、專門家の書いた辭書や聖󠄁書が實質的󠄁に書き言葉のお手本となるのか」の違󠄂ひはありますが、いづれにしても「これまで何となく守られてきた決まりを專門家が整備する」事が多いものです。

■言葉の決まりを決める公式の權威と非公式の權威
 政府や國の認󠄁める權威團體は、言葉の決まりを決める上で大きな力を持ちます。良い方向に進󠄁むなら、「これまできちんと決められてゐなかった書き方の決まりを、鶴の一聲できちんと決める事によって、世の中がスムーズに回る」結果につながります。一例として、從來、一部の語で假名遣󠄁の異なる「定家假名遣󠄁」「契沖假名遣󠄁」と云ふ二流派があったところを、明治政府が學校ヘ育では後者に統一し、現在も使はれてゐる歷史的󠄁假名遣󠄁になっていきましたが、定家假名遣󠄁の成󠄁果も引き繼ぎつつ、古典の更なる硏究成󠄁果も取り込󠄁んで改訂してまとめた後者を採󠄁用したのは、私は「良い選󠄁擇だった」と思ひます。
 一方、書き方の決まりを變へる事に社會が反對してゐるのに、國の權力を背景にそれを強行する事例も珍しくありません。古い書き方が法律で禁止されないとしても、「これからは親世代みたいな古い書き方はしません、新しい書き方でないと點數をあげません」と學校で兒童にヘへ込󠄁む事で、兒童が親世代の書き方を「古臭い」と見下げたり、讀みづらいと感じるやうになったり、古い書き方の利點を體では感じられなくなったり(たとへば漢字が廢止された國では、新しい世代が漢字の面倒な點はわかっても、利點を知るのは難しい)、社會が否應なしに新しい世代の國語に對應せざるを得なくなるのです。
 それでも、改革案が道󠄁理に叶ったもので、社會が犧牲を拂ってでもより良い國語になるなら、まだいい。問題は、政府や權威團體の抱󠄁へる專門家が「良かれと思って」行ふ提案が、必ずしも良い結果につながるとは限らない事です。たとへば、二十世紀の西洋中心の考へが廣まってゐた時代において、「タイプライターのキーボードに乘らない文字は後れた文字」と云ふ考へがあり、日本でも朝󠄁鮮半󠄁島でも一部の專門家に漢字が厄介者扱󠄁ひされました。朝󠄁鮮半󠄁島では漢字がほとんど使はれなくなって、漢字文化󠄁が危機にさらされてゐますし、ここ日本でも「使ってはいけない漢字」扱󠄁ひされた事で社會から排除されてきた言葉が澤山あります。
 そのため、「政府が言葉の決まりを決めるのではなく、自然に任せるべきだ」と主󠄁張する人もゐますし、私も一時期さう信じてゐた事があります。しかし、特に二十一世紀の現代においては、政府から言葉の決まりを決める權限を奪ふ事では、この問題は解決しません。なぜでせうか。

 「政府ではない權力」も、あるからです。
 まづ、新聞をはじめとしたマスメディアです。マスメディアは、「共同通󠄁信記者ハンドブック」を書き方の手本にする事があります。このハンドブック自體も文科省の定めた國語表記を手本にしてゐますが、一部は更に嚴格な決まりを定めてゐます。そして各新聞社ではそれに加へて獨自の決まりを作ってゐる事もあり、たとへば一部の新聞社では常用漢字表にない漢字に、傳統的󠄁な活字體にはない略字體(擴張新字體)を創作して採󠄁用した事もありました。文脈を無視して機械的󠄁に特定の言葉をタブー視して排除する「差別用語」の問題もあります。今では、この「フィルタ」を通󠄁らない文章をインターネットで比較的󠄁自由に公開出來るやうになりましたが、ネットのない時代は大變でした。寄稿するにも、このガイドラインに逆󠄁らった原稿は容赦なく修正されますし、修正を拒󠄁否すると揭載も拒󠄁否されます。
 次󠄁に、最近󠄁何かと話題の「マナー講󠄁師」です。「コ利の注󠄁ぎ口を使ふな」「部下の印鑑はお辭儀をするやうに傾けて押せ」等の奇天烈なマナーを廣めるのはまだ可愛い方で、「國語の正しい使ひ方」の決まりを勝󠄁手に創作して廣めてゐるからです。「『ご苦勞樣』や『了解しました』を目上の人に使ふのは失禮」と云ふデマ然り。「『通󠄁り』『下さい』『事』……等の言葉は漢字で書かず『かなに開け』」といった「有難い」ご忠吿然り。あまり考へずに會社のルールとして安易に取り込󠄁むケースも多く、知識のある人は誤󠄁解だと知ってゐても「それでも相手に誤󠄁解を招いたり、社員ヘ育のしっかりしてゐない會社だと思はれたらどうしよう。私は反對だが、それでもマナー講󠄁師に從ふのが無難だ」と思はせてしまひ、一旦着いたデマの火を消󠄁すのは非常に困難です。どんなに不條理でも、逆󠄁らふのが困難な仕組みになってゐます。一部の學校ヘ師がまるで鬼姑のやうに兒童の書く漢字の點畫の粗探しをして嚴し過󠄁ぎる採󠄁點をするのも、この「マナー講󠄁師」の範疇に入るでせう。
 また、コンピュータ時代においては「コンピュータのOS(オペレーティングシステム、基本ソフトウェア)が言語を制約󠄁」します。コンピュータのない時代に、キーボードで漢字を打てるタイプライターが發賣されなかったのと似たやうな事です。コンピュータに搭載された文字コードやフォントの範圍でしか文字を書けず、IMEまたはキーボードアプリのない言語・表記の言葉は、入力するだけでも一苦勞です。國が見捨󠄁てた正書法は、コンピュータにも見捨󠄁てられがちです。
 このやうな「政府ではない權力」も、良い方向に進󠄁むなら役に立つのですが、今の日本を見ると、どうもあまり期󠄁待は出來ません。

 言葉の決まりを決める權力が暴走して國語に取り返󠄁しのつかない害󠄂を及󠄁ぼさないやうに、私達󠄁には何が出來るでせうか。「特に言葉の歷史󠄁を含め、言葉について更󠄁に學ぶ事」「まともな專門家を應援󠄁する事」「をかしい事は『をかしい』と、勇氣をもって主󠄁張する事」だと私は考へます。
 人間は~樣ではないので完璧なものは作れません。書き言葉も、私達󠄁が「最善の書き方」と信じてゐる傳統的󠄁な漢字やかなづかひだって、百パーセント完璧なものではありません。それでも、「理想」を目指してより良いものに整備したり、それに協力する事は出來ます。

 ところで、この文章は傳統的󠄁なかなづかひ、またの名を「歷史的󠄁かなづかひ」「古典かなづかひ」で書かれてゐます。私達󠄁の多くは親や學校の先生に「歷史的󠄁かなづかひは昔の發音󠄁に基づく昔の書き方。現代は現代の發音󠄁に基づく『現代仮名遣い』で書くのがふさはしい」とヘはってきましたが、なぜ、あへて「昔の發音󠄁の名殘」たる「歷史的󠄁かなづかひ」「古典かなづかひ」で書くのでせうか。今後の連載で、その謎を解き明かしていきます。
posted by 國語問題協議會 at 22:00| Comment(0) | 押井コ馬

2021年05月23日

日本語ウォッチング(41)  織田多宇人

嗚咽をもらす

 「おえつ」をもらすと言ふときに「鳴咽」と書く者が極めて多い。正しくは「嗚咽」でなければならない。「鳴」ではなく「嗚」である。この字の存在自體を知らない者が多いのではないか。「鳴」の字の音󠄁は「メイ」で訓は「なく、なる」であることは誰でも知つてをり、熟語の「共鳴、悲鳴、雷鳴」等は馴染のふかいものである。一方「嗚」の方は音󠄁が「オ」で訓はため息をつくときの「あゝ」である。「嗚」一字でも「あゝ」だが、「嗚呼」と書いても「あゝ」である。「嗚呼」が「鳴呼」となつてゐることが何と多い事か、嗚呼!
posted by 國語問題協議會 at 17:37| Comment(0) | 織田多宇人