2017年06月02日

歴史的假名遣事始め (三十) 市川 浩

クイズで遊ぶ歴史的假名遣(三十)

先月のクイズ解答
問題
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。

文字は元来保守的であるということ、仮名は発音の拘束を比較的こうむらないということ、此の二の属性が旧来(注:發音變化前)の表記を維持させるのである。
だが仮名というものは、純粋な音節文字として発明された。それが仮名の最大の特性でもある。したがって、発音変化の影響を受けるのは避けられない。そして、発音の拘束から自由であるということが、逆接的に作用すれば、(中略)当然そういう(注:「かは」(川)→「かわ」など)表記を可能にする。(中略)一つのことばは一通りの発音であるが、表記は二通り、ということである。(「かなづかい入門」23〜24頁)

この主張に對する反論の一例を擧げます。

この文章の問題點は「仮名というものは、純粋な音節文字として発明された」といきなり根據も示さず斷定してゐることです。議論の始めにこのやうな斷定を放置すると、相手の術中に嵌つてしまひます。まるで平安時代の中期に今の「國語分科會」のやうなものがあつて、「純粹な音節文字」の開發を推進したと言はんばかりですが、歴史的にそんな事實は確認できてゐません。百歩讓つて、當初こそ仮名が純粋な音節文字であつたとしても、漢字が使用する「地域」で發音が異つても、字形が同じである故に、あの廣大な大陸に一つの帝國が存在し得たやうに、假名が「時代」で發音が異つても、字形が同じである故に、長い年月の間一つの文化の存在を擔保したことを思ふべきではないでせうか。この連載では既に第十四囘(平成二十八年二月一日)に「生まれと育ち」として論じました。序でに申上げると、假名を「音節文字」と誤認させられて、ルビは表音式で振るのが正しいといつた説が横行して、最近文語文にさへそんなルビ振りが罷り通つてゐるのは許せない暴擧です。

練習問題
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。

契冲仮名遣ははるかいにしえの人間との対話の道具であることに意味があるのであって、そもそも現実のコミュニケーションのためのものではなかつたのだ。
だが、歴史的仮名遣は、そんな現実生活と遊離した仮名遣の原理を受け継いで、現実生活の規範にさせられた。そこに無理があるのは言うまでもない。契冲仮名遣には古学という動機づけがあったが、日本人全員に課せられた歴史的仮名遣にはそれがない。にもかかわらず、契冲仮名遣とおなじ負担を強いられる。いや、それ以上の負担であった。(「かなづかい入門」111頁)
posted by 國語問題協議會 at 10:22| Comment(0) | 市川浩

2017年05月25日

ブックセラピー(その10) 母と子のメディア、繪本のちから。 原山 建郎

たとへば、わが子の「晝食弁當」には、前の晩から獻立を考へ、早起きして作る母の心がいつぱい詰まつてゐる。わが子は弁當箱のご飯やおかずを介して、母の心づかひをいただく。
マーシャル・マクルーハンの「メディアはメッセージそのものだ」を、この晝食弁當になぞらえると、弁當箱(容れ物)が「メディア(媒体)」で、ご飯やおかず(コンテンツ)に込めた母の思ひが「メッセージ」となる。母と子は日々の晝食弁當を介して、「召し上がれ」「いただきます」と、母と子のメッセージをやりとりする。
たとへば、幼少期のわが子に讀み聞かせた「繪本」もまた、やさしい母の聲で語られる「ひらがなの弁當箱」として、いまもなお、母と子を結ぶ最強のメディアでありつづけてゐる。
山口雅子さん(學習院女子大學非常勤講師)は、學生の課題レポートを軸にまとめた『絵本の記憶、子どもの気持ち』(福音館書店、二〇一四)の中で、いま幼少期の子ども、十五年ほど前に子どもだつた女子學生たち、二つの「子どもの気持ち」の乖離と回歸にふれてゐる。

「子どもが樂しんで讀みたいと思ふ繪本を選んでくる」といふ授業の課題で、女子學生が持つてきたのは「おとな好みのムードのある繪本」や「教訓やしつけの繪本」だつた。
さらに、子どもたちが大好きな繪本を何冊か讀ませ、グループごとに討議させて「みんながどのやうに思つたか」を發表させると、【「繪がかはいくない」「話の先がよめてしまつて、つまらない」「繰り返しが多く、あきてしまふ」といつた感想が次々と出て】きたといふ。

河合隼雄さんは、『子どもの宇宙』(岩波新書、一九八七)の中で、かつて「子ども」であつた「大人」が忘れつつある「子どもの宇宙」にふれてゐる。
【この宇宙のなかに子どもたちがゐる。これは誰でも知つてゐる。しかし、ひとりひとりの子どものなかに宇宙があることを、誰もが知つてゐるだらうか。(中略)大人たちは、子どもの姿の小ささに惑はされて、ついその廣大な宇宙の存在を忘れてしまふ。(中略)
私はふと、大人になるといふことは、子どもたちのもつこのやうな素晴らしい宇宙の存在を、少しづつ忘れ去つてゆく過程なのかなとさへ思ふ。】
(「はじめに」一ページ)

そこで、山口さんは、かつて存在したはずの「子どもの宇宙」を引き出さうと、「幼いころに好きだつた絵本、あるいは思ひ出に残つてゐる絵本について」といふ課題を出した。
最初、「思ひ出の繪本なんてない!」「小さいときのことなんて、全然覺えてません」と戸惑ひを見せた學生たちだつたが、一カ月後に提出されたレポートでは、全員が思ひ出した。
『繪本の記憶、子どもの氣持ち』に収められたレポートを紹介しよう。
【*私は、この繪本(『しづかなおはなし』)を讀むときの、母の讀み方が大好きでした。聲をひそめて、小さな小さな聲で讀むものですから、兄と私がギャアギャア騒いでゐたのでは、聞こえません。兄と一緒に息を殺して、静かに静かに≠オて聞いてゐました。
*夜寝るときに、ふとんの中で、母はこの繪本(『わたしのワンピース』)を讀んでもらつた。「ミシン カタカタ ミシン カタカタ」と、母が歌ふやうに讀んでくれたのが印象に殘つてゐる。その讀み方が好きで、今でもよく覺えてゐる。「ミシン カタカタ……」が耳に心地よかつた。】
(「聲と讀み方が好きだつた」三四ページ)

學生たちの「子どもの宇宙」は、「ひらがなの弁當箱」といふ最強メディア、絵本のページでよみがへる。
(武藏野大學非常勤講師 『出版ニュース』コラム Book Therapy no.32)


posted by 國語問題協議會 at 23:26| Comment(0) | 原山建郎

2017年05月16日

きゃりこの戀(47) くれなゐ 雁井理香  

V講  くれなゐ

きゃりこ:
 ちょっといい歌見つけた。意味が全然分からないけど、なんか口調がいいんだ。
  「くれなゐに涙の色のなりゆくをいくしほまでと君に問はばや」
 「くれなゐ」って、紅色(べにいろ)のことだろ。
 涙の色が紅色になるって、なんぢや。
オスカー:
 あんまり泣いたために、血の涙が出て來たことをいふんですよ。
きゃりこ:
 和歌で「涙」と言つたら戀の涙のことだと教はりました。戀の涙が血の涙になるつて、大袈裟すぎて嘘っぽい。
 最後の「君に問はばや」は「あなたに質問してみたい」だね。でも、その前の「いくしほまでと」がちんぷんかんぷんだ。
オスカー:
 漢字で書けば、「幾入までと」。
きゃりこ:
 「入」を「しほ」って讀むの。
オスカー:
 「嬉しさも一入(ひとしほ)だ」って言ふぢやない。染色の言葉なのです。染色液の中に入れるのを「入(しほ)」と言ひます。語源的には「潮が満ちて來て、また引いて行く」ことになぞらへて「しほ」といふ言葉が出来たのでせうけど。「嬉しさも一入だ」は、「もう一回染色液に浸(つ)けて、色が濃くなるやうに、嬉しさが一層増して来る」といふ意味です。
 語源的に考へると「一潮」と書いてもいいと思ひますが、「入」を「しほ」と讀むやうな無茶苦茶な讀み方を見ると、「日本語っていいな」と思ひますよ。世界中で、こんな無茶できるの日本人だけですからね。でも、染色液の中に「入れる」んだから、この字を使つてもをかしくないんだ。
きゃりこ:
 ヘンな外人。よつぽど日本が好きなのね。私がゐるからかな。
オスカー:
 この歌では、袖が涙の色で赤くなるのを染色に譬へてゐます。
きゃりこ:
 分かつて來たよ。「君」といふのは冷たい彼女のことだ。あれッ。彼のことかも知れないね。「あんたの冷たさのおかげで、涙の色が濃い赤になつて來た。あと何回染めさせれば氣がすむのか」 これからもまだ冷たくして、涙の赤い色をもつと濃くさせるつもりなのか、といふ恨みの歌だね。
オスカー:
 見事です。凄い実力になつて來ましたね。
きゃりこ:
 作者は誰?
オスカー:
 道因法師。百人一首に、「思ひわびさても命はあるものを憂きにたへぬは涙なりけり」が入つてゐる人。
きゃりこ:
 「法師」って、坊さんでせう。坊さんが戀の歌を作るの? いやだ。
オスカー:
 坊さんだつて戀をしてもいいぢやないですか。それに、和歌といふのは、藝術のつもりで作るのだから、戀をしなくても戀の歌は作れるのです。
きゃりこ:
 感情の籠らない歌になつてしまはない?
オスカー:
 思つたままを歌にするといふのは、日本の自然主義の考へ過ぎの思想なの。藝術といふのは創造なんですから、現実には一致してゐなくていいのです。男が女の身になつた戀の歌を作る。京都にゐて白河の関の歌を作る。いいぢやないですか。
きゃりこ:
 さう言はれればそれが正しいやうにも思へる。
 ところで、「べに」と「くれなゐ」とは違ふの?
オスカー:
 まあ、同じ色を指すと言つていいでせう。「あか」はちよつと違ふやうだけど、その違ひは説明できません。
 もともとは、「丹(に)」が赤い色を指しました。その丹を延ばして、布に付けたり、脣に塗る(延べる)ことから、「延べ丹」といふやうになり、縮めて「べに」になりました。
 「赤」の語源は「明るい」と同じ。眼を瞑つて太陽のはうを見ると、赤く見えるぢやないですか。「あかい」と「あかるい」は同じだつたのです。ついでに、「黒」は「暗(くらし)」、「白」は「著(いちじるし・しるし)」から来てゐます。
 もう一つついでに、「緑」は「みづみづしい」と関係があります。
きゃりこ:
 ぢやあ、「くれなゐ」は?
オスカー:
 「呉(くれ)」の「藍(あゐ)」。
 「藍」といふのは色の名前ですが、同時に染色のことをも言ひました。もともとは染色と言へば藍色に決つてゐたから。やがて、中國から紅色の染色法が傳はりました。そこで、紅色の染色のことを、「呉の藍」といふことで、「くれのあゐ」。古代には、母音の連続を避ける傾向があつたので、kurenoawiのoが脱落して、kurenawiといふ言葉ができたのです。
きゃりこ:
 「くれ」って、中國の地名なの?
オスカー:
 「呉」は「ご」といふ中國の地名なのですが、無理矢理「くれ」と《訓讀み》したのです。しかも、本當に呉の地方から傳はつて來たのではなく、單に中國のことを「呉」だと考へたやうですね。昔のことですから、大らかでいいぢやないですか。
きゃりこ:
 なるほど。それが戀の涙にまで使はれるとは日本語って凄いですね。
オスカー:
 さうですよ。日本は「言靈(ことだま)の國」と言はれますが、本當に日本語って神秘的だ。「神の國」と言つてもいいと思ひますよ。
きゃりこ:
 外人からそんなことを言はれると戸惑つてしまふね。
オスカー:
 日本人は戰爭に負けてから、プライドも自信もなくしてしまつたのです。もつと胸を張つて下さい。中國人だつて、中國のことを「神の國」と言つてゐるんだから。
きゃりこ:
 ほんと??
オスカー:
 本當ですよ。日本では戦前は日本のことを「神洲」と言ひましたが、中國では、今でも中國のことを「神洲」と言ふんですよ。どこの国でも自分の国のことは特別だと思つてゐるのに、日本人だけ、特別だと思つてはいけないといふ国際主義が強すぎるのです。
 中国では、人工衛星に「神舟」といふ名を附けましたが、「しんしう」だから、「神洲」をもじつたのです。
きゃりこ:
 中国語では違ふ発音なんぢやないの?
オスカー:
 中國語でも、どちらもshenzhouといふ同じ発音です。

posted by 國語問題協議會 at 18:45| Comment(0) | 雁井理香