2018年03月05日

數學における言語(23) ロックとライプニッツ[U]

 前回は『知性新論』の成り立ちについて略述し、「生得観念」をめぐるロックとライプニッツの主張の違ひについても、ライプニッツの言葉を通して簡單にスケッチしてみました。
 ライプニッツの専門家たちによると、ライプニッツは英語がさほど堪能ではなく、ロックの『人間知性論』にはピエール・コスト(1668〜1747)の仏蘭西語譯を通して接したために、「フィラレート」の発言の大部分はコスト譯の拔萃であり、はじめはロックの言説そのものだつたものが、著作が進むにつれてフィラレートの發言は、ロックその人の發言から微妙にずれていくと言はれてゐます。實際、『知性新論』では、「數學とスコラ哲學」の議論が登場しますが、實はロック自身はかうしたテーマを扱つてゐません。「數學」にさほど大きな關心を持つてゐなかつたロックを思へば、さもありなんと頷けます。また、テオフィルの發言量に比して、フィラレートのそれは少なく、フィラレートはライプニッツの教へを受け入れる人物として描かれてゐますが、「いはばライプニッツのための狂言回しの役割を託されてゐる」といふ解釋もあるやうです。
 ロックが「觀念(idea)」といふ言葉を偏愛したことはよく知られてゐますが、彼は人間が直接經驗することから生まれる意識の内容全體(イメージ、思考、感情、記憶)を「觀念」と呼びました。岡部英夫氏によると、『人間知性論』で使はれる「觀念およびその類義語」は、「conception」が28回、「notion」が187回、そして「idea」という言葉は3400回以上といふことで、それに呼應するかのやうにライプニッツは『知性新論』で「觀念」の問題を執拗に論じてゐます。すでに前回、4部構成のそれぞれのタイトルを紹介しましたが、1部、2部のタイトルには「觀念」という言葉が用ゐられてゐますし、3部、4部も「言葉、認識」の問題を扱つてゐて、「觀念の學問」である數學に携はる私には、それ自體大變興味深いテーマです。
 「生得觀念」に対するロックとライプニッツの違ひはすでに述べましたが、さらに大きな違ひは、「觀念操作」すなわち「思考」に對する違ひにも見ることができます。一言で言へば、ロックのそれは「直觀的(あるいは直感的)」であつて、觀念對象それ自體が漠然としてゐて曖昧なやうに思はれます。それゆゑ彼は「歸納法」を重んじ「反證不可能な議論」といふものを注意深く避けました。
一方ライプニッツのそれは、「論理機械的」であり、「人間の思考は單なる直觀ではなく、推論であり、記號の代數的計算(=アルゴリズム)」と考へてゐました。かうした發想は彼の「普遍數學」を生み、さらにこんにちの「人工知能(AI)」の淵源にもなつてゐます。なほ、ライプニッツの普遍數學に興味をお持ちの方は、拙著『ライプニッツ普遍數學への旅』(現代数學社)を參考にしていただけたらと思ひます。
 もとより、ロックの『知性論』とライプニッツの『知性新論』とを詳細に比較檢討してみることは、私のやうな者の任に堪える仕事ではありませんが、以下、私が特に興味のある第2部16章「數について」と17章「無限について」の對話を簡單に紹介しておきます。
 「數について」では、フィラレートは「數」を「整數」のみに限定して議論を進めますが、テオフィルはそれを「有理數、無理數、超越數(πのような數)」まで考慮して、「連續量と離散量」とを明確に認識した上で論を進めます。「微分積分」創始者のライプニッツならではの視点です。
また「無限について」では、フィラレートは「無限を有限の持續の様態化」と考へ「無限な持續ないし永遠について實定的觀念、廣大無辺性の觀念をもっていいない、無限數の現實的觀念の不合理性ほど明らかなものはない」と述べます。それに對してテオフィルは「眞の無限は様態化(=有限の延長)ではなく絶對的なものです」と語ります。この見解の相違については、「數學における有限と無限とは決して連續するものではない」という16回目の私の言葉を想起していただけたらと思ひます。 勿論私は、テオフィルの側の住人です。 (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 11:06| Comment(0) | 河田直樹

2018年03月01日

歌  早春賦  作詞 吉丸一昌 、作曲 中田章

 一、春は名のみの風の寒さや 谷のうぐひす歌は思へど
    時にあらずと 聲もたてず
    時にあらずと 聲もたてず

二、氷融け去り 葦は角ぐむ さては時ぞと 思ふあやにく
   今日も昨日も 雪の空
   今日も昨日も 雪の空

三、 春と聞かねば 知らでありしを 聞けばせかるる 胸の思ひを
     いかにせよとの この頃か
     いかにせよとの この頃か
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2018年02月23日

「つたへること・つたはるもの」 きのふ・けふ。yesterday・today。和・英の「とき」感覺。 原山建郎

 
一年の初めに、正月を詠んだ俳句と和歌から、和語(やまとことば)の「とき」感覺をさぐつてみよう。
●去年今年(こぞことし)貫く棒の如きもの   高濱虚子(虚子五句集)
●命繼ぐ深息しては去年今年(こぞことし)   石田波郷(酒中花以後)
詞書(前書き)に「む月一日詠みはべりける」とある、後拾遺和歌集第一「春上」、小大君(こおほきみ)の和歌。
●いかにねておくるあしたに言ふ事ぞきのふをこぞとけふをことしと
詞書に「ふる年に春立ちける日よめる」とある、古今集巻一「春哥上」巻頭、在原元方(ありはらのもとかた)の和歌。
●年のうちに春は來にけり一年(ひととせ)を去年(こぞ)とや言はむ今年(ことし)とや言はむ
たとえば、こぞ(去年)、ことし(今年)、あした(朝・明日)、きのふ(昨日)、けふ(今日)など、「ひらがな」で記した和語のうち、現代に生きる私たちは、正假名遣(舊假名遣、歴史的假名遣)の「きのふ」を「きのう」、「けふ」を「きょう」と發音する。
これは、「私は」における「は」の發音が、奈良時代以前は「ぱ(pa)」、奈良〜平安時代初期までは「ふぁ(fa)」、鎌倉時代ごろ「ハ行轉呼(語中・語尾のハ行音がワ行音へと變化した現象)」を起こして現在の発音「わ(wa)」となつたやうに、「きのふ・けふ」の「ふ(fu)」も「う(u)」と發音するやうになつた。
もちろん、「現代仮名遣い」の「きのう・きょう」でも、おほよその意味は「傳はる」のだが、「ひらがな」の和語(やまとことば)が「傳へやう」とした「とき〔時・期・季〕」の感覺を知るために、『学研古語全訳辞典』(金田一春彦監修、小久保崇明編集、学研教育出版、二〇一四年)、『字訓』(白川静著、平凡社、一九九五年)を參考にしながら、六世紀ごろ中國から傳來した「昨日・今日」といふ漢字の訓讀に、なぜ「きのふ・けふ」といふ和語を當てたのか、さらに「とき」をあらはす「ゆふ」「むかし」「いにしへ」「いま」も參照しながら、これらの和語を正假名遣(やまとことば)で考へてみよう。

こぞ 
(一)去年、(二)昨夜(さくや)。「き(來)ぞ」とも。また、(二)には今夜の意味とする説もある。【『学研古語全訳辞典』】
ことし〔今年・今歳〕
 「このとし」の意。「こ」は「こよひ」「こぞ」の「こ」と同じく、最も近いものを指示する代名詞。「けふ」と同じやうに複合語である。漢字にはこのやうな語の構成をとりえないから「今日」「今年」のやうにしるす。「とし」とは年穀(ねんこく)、年に一回の収穫をいふ。【以下の出典はすべて『字訓』】
あした〔旦・朝〕
 「ゆふべ」に対する語。「ゆふべ」の究極に「あした」がある。「ゆふべ」「よひ」「よなか」「あかとき」「あした」で夜の時間が指示される。「あくるあした」の意より、のちには明日を意味するやうになつた。
きのふ〔昨〕 前日。
今日からいつてその前の日をいう。「き」は「昨夜(きそ)」の「き」、「ふ」は「今日(けふ)」の「ふ」で、時を示す語であろう。昨は乍(さく)声。乍には「たちまち」の意があり、また過ぎゆく意がある。
けふ〔今日〕
 この一日をいふ。「けふ」の「け」は「けさ」の「け」で、「此(こ)」より轉じたもの、「けふ」の「ふ」は「きのふ」の「ふ」のやうに日をいふ。「け」は「來(く)」が語幹で、その活用の形であらうと考へられる。
ゆふ〔夕・夜・暮〕
 日ぐれのときをいふ。「ゆふ」の時間帶を「ゆふべ」といふ。一日の時間帶を「あさ」「ひる」「ゆふ」に區分し、「ゆふ」には「よる」をも含めていふ。「ゆふ」には「あさ」、「ゆふべ」には「あした」がその對稱の語である。
むかし〔昔〕
 長い年月を經た、以前の時。「向(むか)ふ」と方向や時間を示す「し」が複合して、回想の向ふ方向をいふ。對義語は「いま」。今(いま)と對立し、いまとは斷絶した状態にある時をいう。類義語の「古(いにしへ)」は「往(い)にし方(へ)」で、いまの延長上にありながら、すでに消滅している時間をいふ。
いま〔今〕
 ただいま現在。「い」は強意の接頭語。「ま」は間(ま)の意であらう。

つづいて、英語がもつ「とき(time,tide)」感覺を、古・中期英語までさかのぼつて調べてみよう。
たとへば「day」の語源は、晝間(一日)を表す「dæg」(古英語)で、dayに方向を示す前置詞「to」がつくと「to‐day(一日ぢゆう→今日)」となり、古英語のmorgen(朝)からきたmorrow(翌朝)につくと「to‐morrow(翌朝に向つて→翌日・明日)」、night(夜)につくと「to‐nigh(今夜)」となる。
「yesterday(昨日)」の「yester-」(古英語)は「すぐ前の」という意味で、「すぐ前の日→昨日」となる。また、昔を表す形容詞「ago」は、「過ぎ去る・通過する」を意味する中期英語の ago(n) からきてゐる。

和語(やまとことば)も英語(古・中期英語)も、ゆつたりと流れる「とき」、宇宙時間の「とき」を、二十一世紀の今に「傳へて」いる。

(武藏野大學非常勤講師『ゴム報知新聞』電子版コラム (2016年10月11日)

posted by 國語問題協議會 at 11:27| Comment(0) | 原山建郎