2019年08月12日

日本語ウォッチング(22)  織田多宇人

たつぷりの水
NHKの『きょうの料理』の以前の版で「たつぷりの水の中に一晩つけてアク拔すると...」とあつたさうだが、なんとなくしつくり來ない。たつぷりは副詞であり、副詞に「の」をつけることは古典の例外的な使用例を除いては日本語にはない。もしこれを認めてしまふと、「ゆっくりの電車に乘つて」とか「どんよりの空に浮ぶ」のやうな言ひ方も出來てしまふ。何故、「たつぷり入れた水の中に」、「ゆっくり走る電車に」、「どんより曇つた空に」としてはいけないのか。
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2019年07月26日

數學における言語(48)非希臘的數學者たち

 Ivinsの『Art & Geometry』「第4章 古代希臘から15世紀まで」には次のやうな主旨の記述があります。すなはち「古代希臘の幾何學の基本的な要請は“tactile-muscular”に基づいてゐたために、限界を突き拔けた無限を想定することができなかつたが、實用的な觀點からアルキメデス(前287〜前212)やアポロニウス(前262〜前200?)はさうしたものを考へるやうになり、さらに、哲學や藝術においてもアリストテレスからプロティノスの時代に同樣なことが起こつてきた」と。
 言葉の眞に意味における「知の巨人」アルキメデスには實にさまざまなエピソードが殘されてゐますが、彼は「取盡くし法(methodus exaustionibus)」によつて抛物線と直線とで圍まれた圖形の面積を求めた最初の人でした。誤解を恐れずに言へばこの面積計算には「極限概念(無限概念)」が利用されてゐますが、「取盡くし法」といふ言ひ方は近世以降のもので、實はこの方法はプラトンの友人であつたエウドクソス(前408?〜前355?)によつて發見されたものでした。それは本質的には第34囘で紹介した「アルキメデスの公理」と同値なものです。
 また、アポロニウスはパスカルに先立つて「圓錐曲線」を研究した人で、直圓錐を平面で切つた場合、その切り口に現れる曲線は、その平面と底面となす角θの大きさによつて、楕圓、抛物線、雙曲線になることも發見しました。すなはち、母線と底面のなす角をaとすると、

20190726.png

 θ<a[θがaに不足する(ellipsis)]⇒楕圓(ellipse)
 θ=a[θがaと一致する(parabole)]⇒抛物線(parabola)
 θ>a[θがaを超過する(hyperbole)]⇒雙曲線(hyperpola)
といふことになります。ここで注意しておきたいのは、このやうな議論の前提として、アポロニウスは上下に“無限”に廣がつた直圓錐面を考へてゐたことで、彼は確實に非限定の世界を視野に入れてゐました。
 アルキメデスやアポロニウスの他に、「反tactile-muscular」的發想で幾何學の問題を考へた人に、「月形による圓の方形化」を試みたキオスのヒッポクラテス(前470?〜前400)(醫聖ヒッポクラテスとは別人)や「圓の方形化問題」を考へたアンティポン(前450?〜前400?)などがゐます。ここでは深入りすることはできませんが、アリストテレスは『詭辯論駁論』のみならず『自然學』や『エウデモス倫理學』でもヒッポクラテスに言及し、またアンティポンの仕事は『自然學』第1巻第2章で批判してゐます。しかし、このアンティポンの方法は、20世紀に入り『ギリシア數學史』で名高いThomas Little Heath(1861〜1940)によつて「積分法」の萌芽として高く再評価されることになります。
 いづれにせよ「反tactile-muscular」的發想が幾何學に持ち込まれる大きな契機になつたのが、よく知られてゐる「三大難問」です。これは、
 (1)與へられた角を3等分すること
 (2)與へられた立方體の體積の2倍の體積の立方體を作ること
 (3)與へられた圓の面積と等しい正方形を作ること
といふ3つで、“定規とコンパス”だけで解決せよ、といふものです。(1)、(2)は1837年にWantzelによつて、(3)は1882年にLindemannによつてその不可能性が証明されましたが、現在では、これらの問題は「ガロア理論」のオマケのやうな練習問題になつてしまひました。
 冒頭で述べたやうに、Ivinsはアルキメデスやアポロニウスの「幾何學」に見てゐた「反tactile-muscular」的發想を、アリストテレス以後の新プラトン學派やグノーシス派の哲學者の中にも見てゐますが、私はこれを卓見だと考へてゐます。といふのも、グノーシス派以降のスコラ哲學が、單にキリストヘのヘ義をめぐる問題から生まれたものではなく、そこに「數學的論理と無限遠點(~)への信仰」といふ非キリスト者にとつても大變重要で普遍的問題が孕まれてゐるからです。これについては次囘以降に考察してみたいと思ひます。 (河田直樹・かはたなほき)


※先日、(48)を拔かして(49)を先に公開してゐました。お詫び致します。
posted by 國語問題協議會 at 06:08| Comment(0) | 河田直樹

2019年07月07日

數學における言語(49)遠近法の精神的構造

 Ivinsが『Art & Geometry』で提起してゐるのは「數學的論理と無限遠點(神)への信仰」といふ問題でもあると私は考へてゐますが、これを分かりやすく圖式化すると、

  [ユークリッド幾何]:[遠近法]=[論理]:[無限遠點]

といふ比例式になります。現代人にとつてはほとんど無意味と感じられる中世の神學論爭も、私にとつては“[論理]:[無限遠點]”の問題であり、それは單に「キリスト教」の問題ではなく、時代を超えた普遍的な問題だと思はれます。

 私は、あのゴルゴダの丘で十字架にかけられたイエスが「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、どうして私をお見捨てになつたのですか)」といふ問ひを問ふことから原始キリスト教が始まつたと考へてゐますが、ユダヤ教から出發したキリスト教にはさまざまな異端が生まれてゐます。その最大の一派が「グノーシス(希臘語で知識)派」で、キリスト教の教義を希臘哲學によつて確立しようとした人々(パシレイデスやヴァレンティノス)でした。私がこの派に興味を持つのは、彼らが「神の子キリストが受肉したことを否定」し、イエス(肉体)とキリスト(精神)とを明確に區別してゐるといふ點です。私はここに希臘哲學と結びついたグノーシス派の深い宗教的な智慧を感じるのです。

 「異端」ではありませんが、原始キリスト教に立ちはだかつた者としてネオ・プラト二ストのプロティノスにも大いに關心をそそられます。彼はプラトンの教説をさらに神秘化しましたが、プロティノスの哲學は、“[論理]:[無限遠點]”の問題を實に切實な形で提示してゐるやうに思はれます。彼が“太陽”に譬へた「一者」は超越界に君臨する無限遠點(神)であり、そこから絶えず發せられる光が「萬物」を生み出すといふ圖式は、思考の遠近法に他なりません。Ivinsがプロティノスに言及する所以ですが、プロティノスについては次回から少し論じてみたいと思つてゐます。

 東京藝大教授の辻茂氏は『遠近法の發見』(現代企畫室)といふ本の「あとがき」で、「遠近法は、頭を突つ込めば突つ込むほどに問題は擴大してゆく」とお書きになり、次のやうに記されてゐます。

無限の空間を、限られた一枚の紙の上に表さうといふ、深い奥行と丸い廣がりのある世界を平面に移さうといふ、おそらく永遠に解決をみない、つまり不可能なことを行はうとするのですから、これはおいそれと結論が出ることではありません。(中略)畫家はその制作を通して、そして數學者は、數學を通して、それぞれにのめり込んだまま、眞に美術的であると同時に理論的な解答は、先送りになつたままであり續けたといふことなのでせう。(太字河田)


 小學1、2年生の頃、「遠近法」によつて描かれた上級生の繪を見て、ひどく感動した記憶があります。“無限の空間”が平面に見事に移されてゐるのは、幼い私には驚きでした。また、ルネッサンス期の西洋の画家たちの「遠近法」で描かれた繪のほとんどが、キリストにまつはるものであることも、中學生の私には不思議でした。あの有名なダビンチの『最後の晩餐』のみならず、辻氏の『遠近法の發見』で紹介されてゐる28作品はすべてキリスト教にまつはるものです。たとへば、マザッチョの『三位一體』、ピエロ・デラ・フランチェスカの『キリストの笞打ち』、ロレンツォ・ディ・ニッコロの『聖母子と聖者たち』といつた具合です。

 ルネッサンス期の繪畫に宗教的テーマが多いのは、その時代背景を考へれば一應納得できますが、では、なぜそれを「遠近法」で描かなければならなかつたのか?それは、宗教とは獨立に遠近法がすでに確立されてゐたからではなく、むしろ遠近法は神を觀ようとする眼が生み出したと言ふべきかもしれません。それは、vanishing point(無限遠點=神)を觀ようといふ不可能を渇仰する神學の賜物だと私には感じられます。誤解を恐れずに言へば、グノシス派やプロティノスの哲學こそが「遠近法」や「射影幾何學」を創出したのです。(河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 19:30| Comment(0) | 河田直樹