2022年12月16日

かなづかひ名物百珍(22)「をけら祭(サイ)」/ア一カ

[をけら祭]
 京キ八坂~社の元旦の~事。現在も「をけら」表記。舊稱「祇園削󠄁掛~事(ぎをんけづりかけのしんじ)」。

 ヲケラ(朮、Atractylodes japonica)は菊科朮屬の多年草。漢方の生藥「白朮(びゃくじゅつ)」はその地下莖。蟲類のケラ(螻蛄)とは關係ない。賭事などに負け所󠄁持金の無い意󠄁味の「おけら」は螻蛄から來た隱語である。
posted by 國語問題協議會 at 21:10| Comment(0) | 高崎一郎

2022年12月09日

數學における言語(82) 中世~學論爭と數學−後期ヘ父哲學(T)

 一般に”宗ヘ(あるいは~學)”と言はれるものの根本動機は何なのでせうか? それは、例へば“生老病死”のやうな人生における避󠄁け難い悲しみや苦しみと言つてみることもできますが、“中世の基督ヘ~學”の場合は、何よりもまづ、“この世界が在るといふことに對する驚き”ではないか、と私は勝󠄁手に考へてゐます。そして、私自身の中世~學論爭への興味關心もそこから生まれてゐて、それはG・K・チェスタトン同樣、自分の“子供部屋”で育まれました。
 子供であれば、誰でも一度は發する問ひ――この宇宙の彼方には何があるのか?太古の大昔を遡つたその先はどうなつてゐるのか? この世界は誰がどのやうにしてつくり、最終󠄁的󠄁にどうなるのか? そして、なぜ、やがて自分はゐなくなるのか?――おそらく、子供は子供なりに“あのタルホ的󠄁お終󠄁ひの雰󠄁圍氣と永劫(aeon)への憧れ”から生まれた“世界の最終󠄁的󠄁理解衝動“に驅られて、この世界と自分自身に對して5W1Hの問ひを發し、その“答”として彼自身の“言語模型”を拵へていくものなのです。拙著『世界を解く数学』の第5部「こどもの世界認識と言語の話」の中で私は次󠄁のやうに書いてゐます。
 ダーウィニズムの生物学者ヘッケルは「個体発生と系統発生は相似であって、個体発生において系統発生の全過程が繰り返される」という、いわゆる「反復説」を唱えたが、この「繰り返し」は「歴史を生きざるをえない」ヒトの精神世界においてもそのまま踏襲される。それゆえ古代人の憧れ、畏れは、こどもたちの心の中でこそ鮮やかに甦る。こどもの百科図鑑に出ているような古代人の宇宙像は、現代の大人にとっては、セキツイ動物の鰓裂(さいれつ)のように、捨てられるべき「過去形」ものでしかなかろうが、この世に生を受けて10年もたたないこどもにとっては、それはまさに「現在進行形」の理に叶う素適な宇宙像なのだ。

 この“言葉による宇宙像(曼陀羅圖)”こそ、私にとつての”~學”であり、その自然な延󠄁長線上に“學問”としての“基督ヘ~學”が生まれたと考へてゐます。洵に無邪󠄂氣で能天氣な認󠄁識ですが、なに、”~學論爭”など難しいものと考へずに、それは子供の幼い世界認󠄁識と地續きのものと構󠄁へて附き合つた方がよい、といふのが私の若い頃から持論です。
 後期󠄁ヘ父哲學と言へば、まづ第一にアウレリウス・アウグスティヌス(354〜430)を擧げなければなりません。彼は、354年北アフリカのタガステといふ所󠄁に生まれてゐます。母は基督ヘ徒のモニカ、父は非基督者のパトリキウス。12歲の頃、タガステからおよそ30kmばかり南にあるマグウラといふ町の學校󠄁に入り、17歲の頃一旦歸クして、その後ロマニアスといふ人の援󠄁助を得てカルタゴに赴き辯論術󠄁を學んでゐます。
19歲のときキケロの”哲學のすすめ”とも言ふべき『ホルテンシウス』を讀んで、哲學への情󠄁熱に目覺めやがてマニヘ(マニヘとは、ゾロアスターヘに基督ヘを加味した謂はば一種のグノーシス宗ヘ)の信者となります。しかし、30歲のときミラノで辯論術󠄁のヘ師をしてゐる間に、司ヘアンプロシウスと出會ひ、アウグスティヌス33歲のときやうやく彼から洗禮を受󠄁けて基督ヘの信者になつてゐます。37歲のときヒッポ・レギウスの司ヘに任命され、その後彼は堰を切つたやうに多くの著作を書き上げることになるのですが、430年ヒッポの町がゲルマン人のヴァンダル族に包󠄁圍される中、76歲でその生涯を閉ぢてゐます。それは、正にローマ帝󠄁國の“落日”によつて“中世の夜”が始まらうとする(とき)でした。
 アウグスティヌスの遺󠄁した著作はそれこそ厖大であり、“ヘ父哲學の知の巨󠄁人”と言つても過󠄁言ではないでせう。主󠄁なものを擧げると、『獨白』(386〜87)、『幸bネ生活』(386)、『自由意󠄁志論』(388〜95)、『吿白』(400)、『三位一體論』(400〜16)、『詩篇講󠄁義』(416)、『~の國』(413〜26)といつた具󠄁合で、この他に氣になるタイトルの本を擧げれば『文󠄁法論』、『音󠄁樂論』、、『見えないものを信ずることについて』、『結婚の善について』などがあります。       (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 20:10| Comment(0) | 河田直樹

2022年12月06日

國語のこゝろ(21)「『特定の時代の國語に戾す』のではない」/押井コ馬

【今回の要󠄁約󠄁】
@「正字・正かな」とは「特定の時代の表記を百パーセント正しいと決めつける」言葉ではありません
A「正字・正かな」とは「時代が正しい」のではなく「理念・方針が正しい」のです
B「正字・正かな」とは「現在は暫定」「この先目指すべき目標」です

【主󠄁な漢字の新舊對應表】
國(国) 舊(旧) 對(対) 應(応) 傳(伝) 讀(読) 氣(気) 續(続) 發(発) 關(関) 來(来) 學(学) 點(点) 嚴(厳) 體(体) 實(実) 眞(真) 價(価) 輕(軽) 戰(戦) 樂(楽) 誤󠄁(誤) 會(会) 當(当) 從(従) 擧(挙) 假(仮) 變(変) 繼(継) 獻(献) 圖(図) 參(参) 兩(両) 圍(囲) 賣(売) 藝(芸)

■「あなたは『正字・正かな』と言ふが、どの時代の表記を『正しい』と決めつけるつもりか」
 傳統的󠄁な漢字とかなづかひで書いてゐると、よく言はれる言葉です。
 まあ大半󠄁の場合は文字通󠄁りの質問ではなく、「お前󠄁の演じてゐるのはいつの古代語だ」といふ「からかひ」の言葉の遠󠄁回し表現です。
 しかし、このブログをお讀みの方の大半󠄁はさうではなく、本氣で疑問に思っていらっしゃると思ひますので、解說を續ける事にしませう。「正字・正かな」とは、いつの時代の表記を「正しい」とみなしてゐるのでせうか。

■どうして「どの時代の表記」と言ふのか
 英語も同じく「文字と發音󠄁が必ずしも一對一對應ではない」言葉です。しかし、「あなたは『正しい英語』と言ふが、いつの時代の英語のつもりか?」とか「そんなに古い發音󠄁を引きずつた綴りを有り難がるなら、どうして古英語とかシェークスピアの時代の英語で書かないんだ?」と聞く人はまづゐません。ゐたとしても「(゚Д゚)ハァ? お前󠄁は何を言つてゐるんだ」と呆れられるくらゐが關の山です。
 英語と日本語でどうしてこんなに反應が違󠄂ふのでせうか。理由は色々考へられます。
 まづ、「英語は公的󠄁にも現代の表記であるので『それは現代です』と言へるのに對し、日本語の『正字・正かな』は(私的󠄁に使ふのは自由でも)公的󠄁には『決まりの整備が抛棄(放棄)された過󠄁去の表記』だから」でせう。「現代語にはその名の通󠄁りの『現代仮名遣い』が一番相應しいのに、どうして古代語向けの『舊かなづかひ』なんか有り難がるんだ」と思ってゐる人はきっと多いでせう。「昭和二十一(一九四六)年に『新字・新かな』の出來るより前󠄁の表記」を「正字・正かな」と呼ぶのは「時代で正しいかさうでないかを決めつけてゐる」と誤󠄁解されがちです。學校ヘ科書等の影響で「古語・現代語」と「歷史的󠄁かなづかひ・現代仮名遣い」が混同されがちなのもこれに拍車を掛けてゐるかも知れません。
 次󠄁に、「表記の決まりは、登場した時點でほぼ完璧なものが出來てゐる」といふ誤󠄁解があります。「新字・新かな」は百パーセントとは言ひませんが書き方の決まりが比較的󠄁嚴密にきっちり決まってゐる表記體系で、途󠄁中の「常用漢字表」「現代仮名遣い」への改定は、存在に氣附かない人も多い程󠄁の微修正でした。それが「表記の決まりの普通󠄁の姿󠄁」と思ふと、「正字・正かな」も同じく「どこか過󠄁去に基準となる決まりがきっちりと出來て、それを忠實に眞似してゐるだけだ」と思ひがちです。
 そして「國語表記の決まりの整備に關する歷史があまり知られてゐない」といふのが恐󠄁らく一番大きいでせう。特に、「新字・新かな」の理念に合はないものは「昔の事で、現代の國語とは直接關係ない」とか「新字・新かなを頑固に受󠄁け入れない、守舊派の抵抗」と價値が輕んじられがちです。たとへば、かなづかひは藤󠄁原定家のゐた鎌󠄁倉時代から現代に至るまで多くの人が硏究し規範を定めたり改訂してきましたが、それは「古代の人だけ關係あるもので、私達󠄁には關係ないし興味ない」とか、下手したら「發音󠄁がずれたらその時代に合はせて文字を直すべきなのに、古代の人は守舊派ばかりでサボってゐた」と思ふ人もゐるかも知れません。
 戰前󠄁の學校ヘ育を受󠄁けた人が大勢生きてゐて、「舊字・舊かな」と聞けば何を意󠄁味するかを戰後世代でさへ體でわかってゐた昭和時代は遠󠄁くなりにけり。今は「『舊字・舊かな』とは何ぞや」からいちいち說明しなければならない時代になった事も大きいでせう。「正字・正かな」といふ言葉は尙更です。
 連載第10回「本(もと)の字を知れば漢字が樂しい」を一往󠄁復習󠄁しておきますが、「正字・正かな」と言ふ時の「正字」の反對は「誤󠄁字」ではありません。「正三角形」や「正社員」や「正裝」の反對が「誤󠄁三角形」や「誤󠄁社員」や「誤󠄁裝」ではないのと同じで、「正誤󠄁」の「正」だけでなく、「基本形」とか「正式・略式」の意󠄁味の「正」もあり、「正字」はこちらの意󠄁味です。「正かな」も同じです。

■「時代が正しい」のではなく「理念・方針が正しい」
 しかし私は、といふより私達󠄁國語問題協議會は「正字・正かな」を「只の過󠄁去の實體に過󠄁ぎない」とは思ひません。「現在進󠄁行形で作り上げられてゐる國語表記」「過󠄁去から現在にかけて規範が少しづつ築󠄁き上げられてゐる國語表記」と看做(みな)してゐます。ですから當然、「古ければ古いほど正しい」とは思ひません。そして「特定の時代に從ふ」といふ發想もありませんし、見る角度も違󠄂ひます。
 先にも擧げた「『舊字・舊かな』ないし『正字・正かな』とは何ぞや」ですが、少なくとも「正かな」の方は國語問題協議會で以前󠄁に定義の案を作った事があるさうです。「正假名遣󠄁(平󠄁成󠄁二十年修正版)」といふ資󠄁料が『令和疑問假名遣󠄁』ウェブサイト內の『かなづかひ便覽(令和2年試行版)』にありますので、ここに引用します(なほ、國語問題協議會といふよりア氏自身の意󠄁見ではありますが、假名遣󠄁とは何かといふ解說も興味深いです)。
■■前󠄁書き■■
一 假名遣󠄁は藤󠄁原定家に發し、契沖・本居宣長等による理論的󠄁改訂等が基礎となり、更に明治以降の改良硏究によって、近󠄁代的󠄁な表記法として整備されてきた。これを一般に「歷史的󠄁假名遣󠄁」と稱する。表題の「正假名遣󠄁」とは、假名を用ゐて現代の國語を書き表す正統的󠄁な基準として、歷史的󠄁假名遣󠄁を確認󠄁したものである。昭和二十一年『現代かなづかい』實施以前󠄁の慣習󠄁を尊󠄁重し、新しい知見に基いた修正をいくつか施した。特に時代や地域を超越して國語を統一的󠄁に表記できる整合性を重視した。
(中略)
■■附記■■
今囘、これまでの社會的󠄁通󠄁念としての「舊假名遣󠄁」や「新假名遣󠄁(現代假名遣󠄁)」を正した點は以下の如くである。
○「假名遣󠄁」の定義
【第一章】「假名遣󠄁とは、同音󠄁の假名を語によって使ひ分ける規則である」事を確認󠄁した。
昭和六十年國語審議會答申『改訂現代假名遣󠄁い(案)』前󠄁文で示された「假名によって語を表記するときのきまり」は誤󠄁りと考へた。
○假名遣󠄁判󠄁定の根據
【前󠄁書き】昭和二十一年『現代かなづかい』實施以前󠄁の慣習󠄁を、濫りに變更を加へぬやうに受󠄁け繼ぐことを前󠄁提とした。
【第二章】平󠄁安中期以前󠄁の文獻に見られる用法は、假名遣󠄁を判󠄁定するための基礎であるが、特定の時代を絶對視する事は避󠄁けた。
(後略)

 引用の最後にもあるやうに、「特定の時代を絶對視する」わけではありません。「藤󠄁原定家に發し、契沖・本居宣長等による理論的󠄁改訂等が基礎となり、更に明治以降の改良硏究によって、近󠄁代的󠄁な表記法として整備されてきた」とあるやうに、何百年もの間硏究され整備され續けてきました。
 かなづかひだけでなく漢字についても言へますが、「特定の時代が正しい」ではなく「どんな理念、どんな方針で表記を整備した方が筋の通󠄁った道󠄁か」の方が重要󠄁です。

■「現在は暫定」そして「この先目指すべき目標」
 私は「正字・正かな」を「百パーセント完璧に整備された國語表記」だとは思ひません。人間の作ったものですし、まるで言葉の「家系圖」を作るやうなもので、大方が埋まってはゐても、完璧に埋まる事は恐󠄁らくないでせう。しかし「方向性としては最善」だと思ひます。
 確かに、「新字・新かな」に慣れた人にとっては、最初は確かに取っ付きづらい部分があります。しかし「『略字』『現代語の發音󠄁』といった『根っこ』にすべきでないものではなく、その『ルーツ(roots=根)』を辿って參考にしながら基本の表記を決める」といふ基本原則は、私は「あるべき理想の姿󠄁」だと思ひます。そしてその方針での國語の整備とは私達󠄁が獨自に言ひ出したのではなく、先人達󠄁の長年の實績の積み重ねがあり、私達󠄁はその恩惠を受󠄁けてゐるに過󠄁ぎません。現實問題としては日常生活で「新字・新かな」を多用する事が多いものですが、それでも建前󠄁でいいので「正字・正かな」を「基本の表記」、「新字・新かな」を「その應用」と位置附けるなら、いきさつとしても筋が通󠄁ってゐますし、兩者の關係を整理しやすくなるのではないでせうか。「新字・新かな」こそ「基本」だ、「正字・正かな」なんてものは知らん、といふのは、土臺がないところに家を建てるやうなもので、まるであべこべです。
 繰り返󠄁しますが、私は「特定の時代の國語表記を絶對視」する積もりはありません。「手始めに昭和二十一年『現代かなづかい』實施以前󠄁の表記に一旦戾って、そこから考へよう」と言ふ事はありますが、その時代の表記でさへも「完璧なもの」だとは私は思ひません。
 「正字・正かな」とは「過󠄁去のどこかに完璧な姿󠄁で存在したもの」ではなく、「どこかにある理想」だと私は思ってゐます。過󠄁去の人もそこに完全󠄁に到達󠄁する事は出來てゐませんし、私達󠄁も出來てゐません。「正字・正かな」と言っても、現在の私達󠄁の知識の限界內での「暫定」的󠄁なものです。
 それでもその「理想」に近󠄁附く事は出來ますし、近󠄁・現代のかなづかひ硏究の成󠄁果により、現代の私達󠄁は昭和二十一年の人々よりも何步か近󠄁附いてゐます。「完璧主󠄁義」は卒業しませう。「方向性は正しいけど、百パーセント完璧でないから諦めたり、頑張ってゐる奴の足を引っ張る」よりも、「無理なく出來る範圍で頑張る」方が立派です。

■宣傳:『みんなのかなづかひ2023』發賣中
 全󠄁頁原則として歷史的󠄁かなづかひによる文藝同人誌『みんなのかなづかひ』の最新刊が出ました。直販またはBOOTHにてお求めいただけます。
 12/31の「コミックマーケット101」でも頒布します(2日目東館「ポ」-44b「はなごよみ」。入場チケットが必要󠄁)。
posted by 國語問題協議會 at 09:00| Comment(0) | 押井コ馬