2018年07月14日

日本語ウォッチング(4)  会議を持つ 織田多宇人

「會議を持つ」という言ひ方は英語の直譯から來た表現であらう。國語では、會議は「開く」ものである。言葉と言ふものは時代によつて動いて行くものだし、古くは漢文の訓讀によつて特殊な言ひ囘しなども固定した例があるから英語の翻譯によつて變つた表現が作られ、それが新鮮に感じられたりして次第に用ゐられるやうになるのだ、と言へばそれまでのことである。
しかし、素晴らしい翻譯文に會ふと嬉しくなる。米原万里氏の『不実な美女か貞淑な醜女か』にこんな文章があつた。「來年度の日本のGNP成長率は四%前後になります」と言ふ發言に對して、「Oh, it’s too optimistic!」と言ふ反應があつた場合、田中さんは決してこれを「それは、餘りに樂觀的過ぎます」なんてこなれない日本語に置き換へたりせずに、「讀みが甘過ぎませんか」と譯してくれるのだから、舌を卷く。
posted by 國語問題協議會 at 17:01| Comment(0) | 織田多宇人

2018年07月05日

數學における言語(27)(28) 日本語と哲學[V][W] 河田直樹

 前回紹介した中村元著『日本人の思惟方法』の第4章は、少年時代から「日本にはなぜ數學や數理哲學(和算は除く)の歴史がないのか」と訝り續けてゐた私には、その一字一句が心に沁みわたつてくるもので、できればその全文を紹介したい衝動にも驅られます。以下、「論理や言葉」に關連する個所を思ひつくままにいくつか紹介してみませう。
・日本語本來の和語は、(中略)感性的あるいは感情的な精神作用を示す語彙には豊富であるが、理知的・推理的な能動的思惟の作用を示す語彙が非常にとぼしい。和語の単語は多く具象的・直觀的であるのが常であつて、抽象名詞の形成が十分でない。抽象的概念を和語をもつてすべて表現することは、きはめて困難である。
・西洋の哲學思想がさかんに行はれるやうになつた今日においても、使用される語彙は、多くは漢語二字ずつを適当に構成して、西洋の伝統的概念にあてはめたものである。(略)純粹の和語はついに哲學的概念を表示するものとはなりえなかつた。
・そうじて論理的自覺なるものは、特殊者と普遍者との自覺にはじまるのであるが、日本人は一般にこの關係を十分に意識してゐなかつた。ひとつの概念を個別的な事例から切り離して理解するといふことに拙劣であつた。(なお、‘證明’とは普遍命題から特殊命題の導出にほかならない)。
・日本の因明(佛教の論理學)は、數學や自然科學とはまつたく無關係であつた。和算にさへも影響の跡を見せてゐない。日本人のあひだでは、單に論理的思索が不徹底であつたばかりではなく、精密論理の意義が正しく理解されてゐなかつた。
・日本人が論理學に適しないといふことはほとんど宿命的なやうである。
 この他にも、中村元の批判は、道元、徂徠、篤胤などにも及び、さらに『シナ人の思惟方法』では、「シナ民族の非論理的傾向は、シナ的佛教である禪宗の場合には、とくに顯著である」といふ言説もみられます。日本文化が、古來シナ文化に大きな影響を受けてきたことを思へば、「日本人が論理學に適しないのは宿命である」といふ中村元の指摘には、もはや言葉もありません。私たちは「日本語の哲學」を考へる前に、「日本文化の宿命」に思ひを致すべきかもしれません。
 そもそも「哲學」といふものがどういふものであるかは、いまは措くとして、しかし私が接してきた哲學書には「漢語二字ずつを適當に構成」してつくつた「悟性、思惟、觀念、表象」といつた言葉(粗製亂造された言葉といつてもよいが)が多く登場し、それはそれで無意味ではありませんが、その定義の曖昧さと不正確さとには閉口したものです。
前回、「理」という言葉に少し触れましたが、「理とはすなわちratio」という文化傳統を缺いてゐる私たちは、「理性、理知、合理、哲理」といつた言葉に含まれた「理」に一體どんな意味をみるのでせうか。「知(理)に働けば角が立つ」程度のナイーブな情緒的認識からは、「絶對的な眞を求めるための徹底的な論證文化」は生まれようがありません。「1+1=2」は「眞」であり、それ以外のなにものでもないのです。
 「日本語」と「哲學を含む西洋文化」との關係については、これまで多くの識者たちが發言してゐますが、西田幾多郎の畏友であつたあの鈴木大拙(1870〜1966)も『日本的靈性』の緒言で次のやうに述べてゐます。すなはち「日本では元來の大和言葉のうへに漢文字があり、そのうへに歐米からはいつて來た言葉に、多くの場合、漢文的譯字を付したので、今日の日本語なるものは複雜怪奇を極めてゐると言つてよい。(略)明治の初頭から、歐米の文化が狂亂怒濤のやうに押しかけて來たので、何でもかんでも文字を組み合はせて、それらを自分の頭にしまひ込に、維(こ)れ日も足らずといふ次第であつた。これは今日まで盛んに行はれてゐる實況である」。論旨は中村元の批判とほぼ同じで、いまの日本を生きてゐる私には耳の痛くなる指摘です。しかし、實は私はそんなに悲觀してはゐません。           

日本語と哲學[W](28)
 ここまで數回に亘つて、「日本語と哲學」の問題を考へてきましたが、要するに私の長年の不滿は「日本語で書かれた哲學書の言葉が難解で意味不明確」といふ點でした。しかしそれも西洋由來の哲學的概念を漢語(これもまた外國語)の適當な組合せによつて受容せざるを得なかつたことを考へると致し方のないことかもしれなくて、むしろ日本人のその涙ぐましい努力と知恵とを壽ぐべきかもしれません。これまでの生硬な哲學用語も、時間とともに私たちの言語空間の中で變容し、成熟し、そして定着していくのではないかとも思はれます。
たとへば、こんにちごく當たり前に使つてゐる「自然」といふ言葉もさうで、かつてはこの言葉は科學的認識の對象ではありませんでした。日本思想史家の源了圓は「日本人の自然觀」といふ論文で、次のやうに述べてゐます。―「われわれの直面する第一の問題は『自然』といふ言葉が二重の意味で飜譯語であるといふことである。中國の『自然』に當たることばは古代のやまとことばには存しなかつたし、西歐のnaturaやnatureといふことばに、16〜17世紀(天主教)、ならびに18〜19世紀(蘭學ないし洋學)に觸れた時もそれに相當することばをもたなかつた。(略)第二は、「自然」といふ概念が複雜で多岐にわたるのに、過去の日本人は、自然といふことを古代ギリシャ以來の西歐人たちや、中國人の思想家たちがなしたやうに、古代から自覺的に哲學的問題として思惟の對象とすることがなかつたことである」。
 源了圓の指摘は尤もですが、明治以後の150年で日本人の「自然」に對する對し方の決定的變化は、「自然科學」といふ言葉があるやうに、それが「學問的認識の對象」になつたことで、しかもその根源的原動力が「數學」だといふことです。いふまでもなく、體系化され組織化された數學による認識方法は、古代希臘以来の西歐の傳統で、殘念ながら我が日本文化の傳統ではありませんでした。ガリレオ・ガリレイは「宇宙は數學言語で書かれた書物である」と述べましたが、和辻哲郎が『風土』で指摘したやうに、「ヨーロッパ人は夙に、自然の中に合理(=數理)を見てゐた」のです。和辻は書いてゐます。

  わが國においては人工的と合理的とが結びつきヨーロッパにおいて
は自然的と合理的とが結びつくといふことも言ひ得られる。

 この指摘はさすがで、「自然の中に合理(=數理=ratio)が在る」といふ「信仰」こそ、「自然科學、あるいはmathesis univeralis(普遍學)」を生む濫觴だつたと言へます。日本人の場合、汎神論的な自然崇拝といふ形をとつた「信仰」はありますが、その信仰の意味は全く異なつてゐて、むしろ私たちは「自然=非合理(非數理的)、人工=合理」といふ認識をいまだに共有してゐます。ちなみに、スピノザの汎神論哲學と私たち東洋人の多神教的汎神論の類似性がときどき指摘されたりしますが、私は全く別物だと考へてゐます。あのスピノザの『エチカ』のユークリッド幾何的論證の眞髄は、「1+1⇒(ならば)2」といふ、その「ならば(⇒)」の絶體的正しさに對する極めて平明素直な信仰に基づいてゐて、さうであればこそ、スピノザはニーチェに先立つて「善悪の彼岸」を透徹した眼差しで見ることができたのではないのでせうか。
 ともあれ、日本語の哲學用語は難解でいささか虚假威し的側面がないわけではありませんが、日本人の美感と智慧とは、50年後、100年後には西洋傳來の哲學を見事に自家薬籠中の物にするのでは、と私は樂天的に信じてゐます。田中美知太郎氏の著作を讀み始めたのは30代の初めでしたが、氏の文章に心酔し、これこそが「日本語の哲學だ」と思つた記憶があります。氏が1985年に死去されたとき「當代随一の文章家」といふオマージュを捧げたのは山本夏彦氏であつたと記憶してゐますが、私たちはすでに立派な哲學の文章を有してゐて、「日本語は生きのびるか」と心配する必要などないのです。    (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 11:41| Comment(0) | 河田直樹

2018年07月01日

歌 浦のあけくれ 

作詞:吉丸一昌  作曲:マッジンギ
むらさきの 横雲は 空にたなびきたり
海は今さめて 夢路の闇を出でぬ
寄り来る波 返る波 さらり さらと響き
松の風 そよと吹く のどかなる 今日の海や

網をつづる 翁のかげ あたたかなり岸辺
沖には白帆ぞ 雲に消えゆく
寄り来る波 返る波 さらり さらと響き
松の風 そよと吹く のどかなる 今日の海や

海士(あま)の囀り 黄昏(たそが)れつつ
燈火(ともしび)は見え初めぬ ほのかに月さえ 磯馴(そなれ)の松に
寄り来る波 返る波 さらり さらと響き
松の風 そよと吹く のどかなる 今日の海や
posted by 國語問題協議會 at 22:26| Comment(0) |