2018年05月13日

日本語ウォッチング(2) 降り乘りお早く願います 織田多宇人


駅のアナウンスは何氣なく聽いてゐるが、よく考へるとをかしいことが時々ある。「乘り降り」と言ふべきところを「降り乘り」と言つてゐる時がある。どうやら、降りる人が先で乘る人が後だからと言ふことらしいが、これは屁理窟だらう。一人の人間に注目すれば、乘るのが先で降りるのは後になる理屈だが、「乘り降り」と言ふ言葉は二つの動作として扱つてゐるのではなく、慣用句である。「讀み書き」、「飮み食ひ」を「書き讀み」、「食ひ飮み」とは言はないだらう。
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2018年05月04日

數學における言語(25) 日本語と哲學[T] 河田直樹

 前回述べたように、これからしばらく「中世から近世にいたる無限思想の旅」に出てみたいと思ひますが、その前に「日本語と哲學」の問題を少し考へておきます。といふのも、「無限思想」を考へるにも、それはやはり「言葉」に依るほかはなく、實はその言葉のほとんどが我が國の歴史や傳統の育んできた和語あるいは漢語とは懸け離れたものだからです。かなしいことにこんにち私たちが使つてゐる數學・哲學用語は、高々150年程度の歴史しかもたないのです。
そもそも日本には明治になるまで「哲學」といふ言葉そのものがなく、よく知られてゐるようにこれは鷗外の遠縁にあたる西周(1829〜1897)が『百一新論』のなかで‘philosophy’の譯語としてはじめて用ゐたものです。また、「現象」も ‘phenomenon’の西周による造語です。
中江兆民(1857〜1901)は『一年有半』に、次のやうな痛烈な批判の言葉を殘してゐます―「わが日本古より今に至るまで哲學なし。本居篤胤の徒は古陵を探り、古辭を修むる一種の考古家に過ぎず、天地性命の理に至ては瞢焉(ぼうえん)(=あいまいでよく分からないこと)たり。仁斎徂徠の徒、經説につき新意を出せしことあるも、要、經學者(=儒學者)たるのみ。(中略)近日は加藤某、井上某、自ら標榜して哲學家と爲し、世人もまたあるいはこれを許すといへども、その實は己れ學習せし所の泰西某々の論説をそのままに輸入し、崑崙に箇の棗(なつめ)を呑めるもの、哲學者と稱するに足らず」と。
 井上某とは、井上哲次郎(1855〜1944)のことですが、‘category’の翻譯語である「範疇」といふ厄介な言葉は彼によつてゐると言はれてゐます。「範疇」は「實在や思惟の根本的形式、概念のうちで最も一般的・基本的概念」などと、これまた譯の分からない説明を聞かされたりしますが、私が「範疇」といふ言葉をそれなりに了解したのは、アリストテレスの「カテゴリー論」を讀んでゐたときのことで、要するに「カテゴリー」はギリシア語で「非難、告発」を意味する法律用語であり、そこにはまた「述語付ける」といふ意味があります。これが分かれば、「モノゴトを述語付けするための基本的視點群」が「カテゴリー」だと、ごく常識的な日常感覺で理解できます。本來「哲學」は難解な言葉をこれ見よがしに使ふものではない、と私は考へてゐますが、その意味では「數學」と同じで、その言葉の由來と定義こそが大切です。
 確かに、哲學も數學も「難解でない」と斷言するのは憚られますが、それは言葉の意味、定義が明確でないからです。數學の場合、その言葉はある意味で徹頭徹尾人工的ですので、「分かる、分からない」といふこと自体が判明ですが、哲學の言葉はどこかで私たちが日常用ゐる自然言語と陸続きですので、それゆゑその言説が何となく「分かつた氣」になり、實はそれがかへつて哲學を難しくしてゐるとも言へます。
ランダウ・ジューコフ著『相對性理論入門』(鳥居一雄、廣重徹譯・東京圖書)といふ本を讀んで以來、「存在と時間」といふテーマに非常に興味を持ち一人で考へてゐた高校1年の春、まつたく同じタイトルの本(岩波文庫、桑木務譯のもの)を書店で見つけて狂喜し早速購入、讀み始めたのはいいのですが、それは「科學哲學」の本ではなく、その言葉遣ひは難解の極致、「現存在」といつた言葉が次々と登場し、なぜかうも理解し難い翻譯をするのかと訝かつたものです。尤も獨逸語のオリジナルも十分難しいやうで、難解な飜譯は致し方のないことかもしれません。
餘計な話ですが、未完の大作『存在と時間』に比べると、同じ人の手になる『ヘルダーリンの詩の解明』(手塚富雄他訳・理想社)の方ははるかに讀み易く、「Heimkunft(帰郷)」の「Aber reizender mir bist, geweihete Pfoete!/Heimzugehen,wo bekannt blühende Wege mir sind」を、三島由紀夫は『絹と明察』のなかで、「されどわが心にいやまさる樂しみは、聖なる門よ!汝(なれ)をくぐりて故里へ歸りゆくこと」と、實に美しく分かりやすい日本語に譯しています。なぜ「哲學」では、かうはいかないのでせうか。      (河田直樹・かはたなほき)
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2018年05月01日

夏は來ぬ

夏は來ぬ  作詞 佐佐木信綱  作曲 小山作之助
 
  一、卯の花の 匂ふ垣根に
    時鳥(ほととぎす) 早も來鳴きて
    忍音(しのびね)もらす 夏は來ぬ
  二、さみだれの そそぐ山田に
    早乙女が 裳裾(もすそ)ぬらして
    玉苗(たまなえ)植うる 夏は來ぬ
  三、橘の 薫るのきばの
    窓近く 螢飛びかひ
    おこたり諌むる 夏は來ぬ
  四、楝(おうち)ちる 川べの宿の
    門(かど)遠く 水鶏(くひな)聲して
    夕月すずしき 夏は來ぬ
  五、五月(さつき)やみ 螢飛びかひ
    水鶏(くいな)鳴き 卯の花咲きて
    早苗植ゑわたす 夏は來ぬ
posted by 國語問題協議會 at 10:51| Comment(2) |