2017年05月10日

數學における言語(その12) 數學と自然・社會

 前回は、數學とそれを取り巻く世界との關係の概觀圖を提示して、私自身は「數學」と「自然科學、社会科學、工學、醫學」などとの關はり方にはさほど興味はない、と申し上げました。しかし、これはもちろん少々言い過ぎで、數學言語が自然現象の解明に多大の寄與をしてきたことは、科學史を繙けば直ちに了解できることで、「古典力學、相對論、量子力學、熱力學、宇宙論」や「生命化學、遺傳子工學」など、極大世界から極小世界まで、その至るところに顔を出す「數學」は、まことに心躍らせるものがあります。
 たとえば、「フーリエ級数」の創始者フーリエ(1772〜1837)は、彼の有名な『熱の解析的理論』の序文で「熱は、重力と同様に、宇宙の全物質を貫く。その放射は空間のあらゆる部分を占める。われわれの著作の目的は、この熱といふ元が從ふ數學法則を明らかにすることである。この理論は、今後、一般物理學のもつとも重要な一分野となるであらう」(吉川敦著『フーリエ現代を担保するもの』)と述べてゐますが、熱現象を數學的に解明せんとする、フーリエの滿々たる野心の傳つてくる文章です。「フーリエ級数」によつて、私たちは様々な直線や曲線を「無限個の三角関数の和」で表現することが可能になりましたが、フーリエ解析は現代の「通信理論」にはもちろんのこと、私たちが日常的に利用してゐるCDの音楽やDVDの映像などにも不可欠のものとなつてゐます。
 のみならず、「數學的思考法」は法學にも顔を覗かせ、「國際法の祖」と言われるフーゴ・グロティウス(1583〜1645)は、『戦争および平和の法』の「諸論第58節」で次のように語つてゐます。

  あたかも數學者たちが、彼らの數學を具體的な實態から抽象されたものとして取り扱ふやうに、私は法を取り扱ふ場合に私の心をいかなる個別的な事實からも引き離してきてゐるといふことを、わたくしは、いささかも嘘僞ることもなく、確言する。

 まことに天晴なmanifestoですが、グロティウスは第39節では次のやうにも述べてゐます。―「わたくしが關心事としてきたのは、自然法にかかはる事物の證明を、疑問の餘地のないやうなある種の基本的な概念に向かつて求めるといふことである。さうすれば、誰も自分自身に背反することなしにはそれらの證明を否認することができなくなるからである」と。私は、その昔この箇所を讀んだとき、グロティウスとほぼ同時代人のデカルト(1596〜1650)の『方法序説』第2部の「數學の問題から得ようと期待したのは、私の精神がいつも真理を糧とし、僞りの推論には甘んじないといふ習慣を得るため」といふ言葉を直ちに想起しましたが、「法」と「數學」とのアナロジカルな思考法は、こんなところにも發見することができるのです。
 數學と自然科學、社會科學、人文科學との關係について考へゆくとそれこそ議論百出の様相を呈しますが、政治、經濟分野と數學に關しても、たとへばウィリアム・ぺティ(1622〜1687)の『政治算術』のやうな著作が思ひ浮かびます。これはオランダやフランスと自國イギリスとの國力比較のために書かれたもので、この本には「土地の大きさと價値、人民、建築物、農業、製造業、商業、漁業、工匠、海員、兵士、公収入、利子、租税、餘剩金利、登記制度、銀行、人間の評價、海員および民兵の増加、港、位置、船舶、海上權力などに關する論説」といふ、實に長い副題がつけられてゐます。かうした多くのテーマがすべて數學と關はつてゐるわけで、數學の射程の廣大さが思ひ遣られます。
 話が脱線しましたが、當日の講演では、私は上で少し述べてきたやうな問題には、一切觸れませんでした。なぜなら、私の子供時代からの數學への嘘僞りのない切實な關心は、前回の圖式の右列に掲げた「人間、精神、身體」との關はりにあつたからです。
                   (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 19:37| Comment(0) | 河田直樹

2017年05月05日

歴史的假名遣事始め (二十九) 市川 浩


クイズで遊ぶ歴史的假名遣(二十九) 平成二十九年五月一日

先月のクイズ解答
問題
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。

歴史的仮名遣が学問の成果に拠っていることは(中略)認めるにやぶさかではない。だが歴的仮名遣いじたいが学問的合理的であるか(中略)は別問題であろう。換言すれば、現代仮名遣いにも学問的合理性を認める余地があるということである。
それになにより、仮名遣いを議論するときに、その優劣の判定に学問的合理性が必要なのか(中略)。誤解をおそれずにいえば、わたしは仮名遣に限らず、「規範」というものに学問的合理性や正確性は必ずしも必要とは考えない。(「かなづかい入門」11頁)

この主張に對する反論の一例を擧げます。

茲には二つの論點があります。一つは「現代仮名遣い」にも學問的合理性があり、歴史的假名遣を凌駕するのか、もう一つは假名遣を「規範」と見る時學問的合理性が必要なのかといふ問題です。
先づ現代假名遣に學問的合理性が十分あるかといふことですが、告示から十年ほどは、現代假名遣が合理的であり、それに反して歴史的假名遣が如何に不合理なものであるか熾んに喧傳されました。しかし其の根據は「話し言葉の記録用に表音文字を中心とした書き言葉」といふ概念に基く西洋言語學にあり、其れは其れで一つの「學問的合理性」があると言へますが、日本語に無條件では適用できないものがあり、逆に現代假名遣の不合理性が徹底的に暴かれたのです。特に決定打となつたのは言ふまでもなく福田恆存先生の「私の國語教室」ですが、本書では全く觸れず、「參考文獻」にすら載つてゐません。
次に假名遣は法律とは異る「規範」であるといふ概念には、それが「文化」の所産であるといふ限り、私も贊成です。何故なら文化的規範は法律とは異り、文化として形作られ、長い年月の世代を經て傳承して來たものだからです。歴史的假名遣は當に漢字傳來以來、日本語の書き言葉として長い歴史と共に發展して來たもので、全ての時代に於ける書き言葉の表現を可能としてゐます。しかし現代假名遣は西洋言語學を表面的に日本語に應用したものに過ぎず、發音が變化する毎に改訂しなければならない、つまり「現代」にしか通用しないのです。恰度世相に併せて改正が必要な「法律」に同じで、「規範」ではないのです。

練習問題
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。

文字は元来保守的であるということ、仮名は発音の拘束を比較的こうむらないということ、此の二の属性が旧来((注)發音變化前)の表記を維持させるのである。
だが仮名というものは、純粋な音節文字として発明された。それが仮名の最大の特性でもある。したがって、発音変化の影響を受けるのは避けられない。そして、発音の拘束から自由であるということが、逆接的に作用すれば、(中略)当然そういう((注)「かは」(川)→「かわ」など)表記を可能にする。(中略)一つのことばは一通りの発音であるが、表記は二通り、ということである。(「かなづかい入門」23〜24頁)

posted by 國語問題協議會 at 10:33| Comment(0) | 市川浩

2017年04月28日

きゃりこの戀(46)

オスカー:
 []遠き別れに堪へかねて この高樓(たかどの)に昇るかな
  悲しむなかれ我が姉よ 旅の衣を調(ととの)へよ
きゃりこ:
 聞いたことあるけど、綺麗な歌だね
 でも「悲しむなかれ我が友よ」だつたと思ふんだけど。「姉」ぢやなくて。
オスカー:
 「惜別の歌」といふのですが、もともとは、島崎藤村の詩なのです。タイトルも「高樓(たかどの)」で、全部で八聯。内容も、姉が嫁いで行くのを妹が悲しんで送る歌なのです。それを、戦時中に中央大学の学生が、学徒出陣に出て行く友人を送る歌にして曲を附け、「惜別の歌」といふタイトルに變へました。そのとき、歌詞も「我が姉よ」も「我が友よ」になつてしまひました。僕は藤村が好きだから、原文で歌つてゐます。
 歌ふときの歌詞は「惜別の歌」としては、三番または四番までだといふことになつてゐますが、「高樓」としては、原文どほり八番まで歌つてもいいでせう。
 さて、二番です。
 []別れといへば昔より 此の人の世の常なるを
  流るる水を眺むれば 夢恥づかしき涙かな
きゃりこ:
 確かに、出陣の餞(はなむけ)といふには餘りにも女性的な歌詞だね。
 なるほど、なるほど、雁井さんのおかげで、おバカでも意味が分かる。
 「昔から愛する人と別れなければならなくなる例はいくらでもある。水が流れるやうに世の中は移つて行くのだ。それを考へると、お姉ちゃんとの別れに涙を流すのは恥づかしいことなんだ」
 うううん。寧々みたいな鬼姉でも、別れるとなると悲しいんだらうな。それにしても、現代では、嫁いだつていつでも會へるんだから、そもそも嫁ぐのと別れるのと關係がないんだね。寧々、早く嫁に行つてしまへ。
 ところで、「夢恥づかしき」の「夢」つて何?
オスカー:
 「ゆめ忘るるなかれ」といへば「決して忘れてはいけない」。「夢にも」といふことから來てゐるのですが、副詞として使はれるやうになりました。否定文に附いて、「決して〜ない」の意味ですが、藤村はこれを「決して泣いてはいけないのに泣いてしまつたのだから恥づかしい」といふ意味で肯定の文に轉用したのです。
きゃりこ:
 そんなに勝手に轉用してもいいの?
オスカー:
 藤村くらゐ偉くなると何をしてもいいのです。芭蕉も文法的な間違ひをしてゐますが、芭蕉が間違へたために、それが正しい用法となつてしまつたといふ例があります。
きゃりこ:
 ずゐぶんいい加減だね。
オスカー:
 国語といふのは文学者のリーダーシップで作り上げられて行くのですから、それはかまはないのです。それよりも、戦後の国語改革で、文部省や学者たちが、「副詞は假名で書くのを原則とする」などといふ規則を勝手に作つてしまつたことのはうがずつとひどい國語破壊なんですよ。
きゃりこ:
 なるほどね。政府主導で規制されたために、日本語は崩れて來たんだ。それに追従した学者たちも情ない連中だね。
 「夢恥づかしき」も文部科学省の命令では「ゆめ恥づかしき」としなきやいけないことになる。「夢恥づかしき」と書いたら、犯罪を犯してることになるんだ。
オスカー:
 []君がさやけき目の色も 君紅(くれなゐ)の脣も
  君がみどりの黒髪も またいつか見むこの別れ
きゃりこ:
 三番になると、もう完全に女との別れになつてゐるぢやない。出陣を送る歌ではないね。男の脣が紅だつたら気持悪い。美少年だつたらいいけど。
オスカー:
 一説によると、作曲者が勤労動員で工場で働かされてゐたときは、女学校の生徒もいっしょにゐたりしてたので、実感が籠つてゐたとも言ひます。
 この歌、いろんな歌手が歌つてゐます。インタネットで見ると、小林旭が歌つてゐるのがやたらにたくさん出て來ます。その中で「惜別の歌 小林旭 リメイク 動画」で検索すると、山の頂上の映つた画面が出て來ます。これが背景の絵が一番美しいので僕は好きです。
 山の頂上にある城跡の写真です。お城は廃却されてしまつたのですが、石垣がかなり完全な形で殘つてゐる。兵庫縣朝來(あさご)市和田山町にある「竹田城」の古跡なのですが、山の上にあるので、「天空の城」と呼ばれてゐます。雲海が城の下の方に見えるのですから、そのロマンティックなことは譬へやうもありません。今度訪ねて行つてみようと思つてゐます。
きゃりこ:
 そんな素敵な所がなんでもつと有名にならないのかしら。
 ちょっと、PC貸してね。インタネット見てみるから。「リメイク」って何だ。意味分からないけど、remakeのことだらうね。
 あ、これか。ひゃああ、綺麗な石垣だね。歌聞かせてね。
オスカー:
 一番二番が城跡だけど、三番の背景の絵がまたいいですよ。
きゃりこ:
 んみゃんみゃんみゃ。凄い美人の絵が出て來たね。オスカー先生の好きなのはこれだつたのか。「君がさやけき目の色は」では目を映し、「くれなゐの脣」では脣だ。リップスティック持つてる絵だ。いやあ、色っぽい女性だね。
 あんまり美人だから絵かと思つたら、やつぱり寫眞だね。知らない顔だから、藝能人ぢやないよ。
オスカー:
 実はこの女性が雁井さんにそっくりなんですよ。
きゃりこ:
 ぱみゅぱみゅぱみゅぱみゅ。この人二十代前半だよ。雁井さんっていくつなの? お世辞言はされる可哀想なオスカー先生。
オスカー:
 雁井さんに逆つたら、僕もきゃりこさんも消されてしまふ運命なのですよ。そしたら、次からは、寧々さんと優ちゃんの對談になつて、二人の間に愛が芽生えることになるでせうね。
きゃりこ:
 いやだあああああ。私も雁井さんにお世辞言ふよ。





posted by 國語問題協議會 at 21:04| Comment(0) | 雁井理香