2022年02月20日

かなづかひ名物百珍(16)「石田治部少輔三成󠄁」/ア一カ

[治部少輔三成]
 戰國大名としてあまりに有名。官位の「治部少輔」は習󠄁慣的󠄁に短く「ジブショー」と發音󠄁し、假名遣󠄁は下字の略とみて「ヂブセウ」、また短縮した「ヂブセフ」の二說ある。「大輔」は「タイフ」。

[治部煮]
 治部煮(ぢぶに)は加賀料理の一。鴨肉や鷄肉の汁椀で、名前󠄁の由來はゥ說あるが、石田三成󠄁に直接かかはる可能性は低いだらう。調󠄁理の音󠄁が「ぢぶぢぶ」なのだといふ說もあり、「おじや」が「じやじや」と煮込󠄁む事からといふ語源說を連想する。
posted by 國語問題協議會 at 21:45| Comment(0) | 高崎一郎

2022年02月12日

數學における言語(75) 中世~學論爭と數學への序曲−言葉の問題(U)

 『日本人とユダヤ人』の14番目の章「プールサイダー―ソロバンの民と数式の民」も大變興味深く讀んだ記憶があります。“プールサイダー”とは“プールサイドにいて、人の泳ぎ方を巧みに批評する人々”のことで、これは“山本書店主の造語”ださうです。それはともかく、要󠄁するに“ソロバンの民”とは日本人、“数式の民”とはユダヤ人(ヨーロッパ人)のことで、この章では日本人とヨーロッパ人の“言語思考”の違󠄂ひが論じられてゐるのです。たとへばこんな記述󠄁が見られます。
 数の訓練といえば、日本人はすぐにピンと来るが、言葉の訓練と言っても、さっぱりピンとこないのである。特に会話の訓練を、ソロバンのように的確に徹底的に習熟させる伝統は日本には全くない。従って、正面切った会話を主体とした文学作品は日本にはない。このことは三島由紀夫氏も指摘しているが、プラトンの対話篇のような作品は日本にはなかったし、今後も出ないであろう。

 私自身「日常會話に習󠄁熟する訓練」を受󠄁けた經驗はありませんし、現在「發言力やディベート力」の必要󠄁性が喧傳強調󠄁されてはゐますが、1970年から50年以上經つたこんにちでも、日本人の思考樣式はほとんど變はつてゐないやうに感じられます。日本では“プラトンの對話篇”のやうな作品は、さほど好まれてはゐないやうに思はれますし、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』やトーマス・マンの『魔の山』のやうな“會話を主󠄁體”とした有名な文學作品もすぐには思ひ浮󠄁かびません。『魔の山』は年ハンス・カストルプをめぐる一種の“ヘ養小說”ですが、第6章の“セテニブリーニ氏とナフタ氏との論争”は壯絶を極めたもので、この二人の“言語バトル”の妙味は日本の小說からは決して味はへないものです。さらに、次󠄁のやうな指摘にも、“言葉に對して不器用”だつた數學少年の私は强い共感をもつたものです。
 ラテン語を学んでいたあるお嬢さんが、「ラテン語ってまるで数式のような言葉ですね」と私に言ったことがある。ヨーロッパ人にとって、言葉とは本来そういうものであり、文章とはある意味では言葉の数式だから、これは当然のことであるが、このお嬢さんにとっては、驚異だったのであろう。

 「文章とは言葉の數式」とは言ひ得て妙で、すでに昭和45年には水谷静夫著『言語と数学』(森北出版)のやうな本も出てをり、“言葉と數式”の關係について注󠄁目され始めてゐました。實は、私自身水谷氏の著作に學生時代接していろいろと啓󠄁發されましたが、特に「第3章 短い間奏曲」の以下の記述󠄁は印象に殘つてゐます―「言語を言語行為にほかならないと主張して理論を打ち出した人に時枝(もと)()(1900〜1967)があります。時枝の言語過程説は江戸国学の現代版とも見られますが、それに時枝自身は言語の数理的研究に余り興味を示しませんでしたが、この流れの研究はいろいろな点で現代の数学的な扱い方に載りやすいのです」。言語はエルゴン(作り出されたもの)ではなくエネルゲア(作り出す働き)だと主󠄁張したのは言語學者W.フンボルトですが、“時枝の言語過󠄁程󠄁說”とはこれに他なりません。時枝博士が“言語の數理的󠄁硏究”に餘り興味を示されなかつたことは殘念ですが、近󠄁年では『言語の科学』(岩波講座全11巻)、『新・自然科学としての言語学』、(福井直樹・ちくま学芸文庫)、『新・脳科学基礎論としての生物言語学』(有川康二・三恵社)などのやうな“言語と數學”について論じた本が多數出版されてゐます。福井氏の本には黒田(しげ)(ゆき)氏(1934〜2009)の「数学と生成文法」といふ附錄があり、「構造としての数学とコトバの構造との間に何らかの掛かり合いがあるのであれば、ヒトの進化の上で数学的知識の獲得とコトバの発生のあいだにも何らかの関係があったのかもしれない」とあります。
 かうした專門家の硏究にも關はらず、しかし俳句・短歌あるいは落語・漫談を愛好する多くの日本人が、言葉を數式として扱󠄁つてゐるとは到底考へられません。良し惡しはともかく、現代日本人もやはり“ソロバンの民”と言ふべきなのでせう。  (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 15:30| Comment(0) | 河田直樹

2022年02月05日

國語のこゝろ(14)「冬󠄀の風物詩『古文・漢文はいらない』論を斬る」/押井コ馬

【今回の要󠄁約󠄁】
@「古文・漢文はみんなが學ぶ必要󠄁はなく、專門家に任せればいい」と主󠄁張する人がゐます
Aしかし「裾野」を狹めると、育てるべき專門家も育たなくなります
B古文・漢文が貴重な文化󠄁資󠄁產であると肌で感じられるのは、それを習󠄁得した人だけです

【主󠄁な漢字の新舊對應表】
國(国) 學(学) 專(専) 狹(狭) 產(產) 舊(旧) 對(対) 應(応) 驗(験) 爭(争) 實(実) 釋(釈) 會(会) 傳(伝) 讀(読) 發(発) 雜(雑) 數(数) 變(変) 擴(拡) 豐(豊) 邊(辺) 經(経) 濟(済) 總(総) 驛(駅) 兩(両) 澤(沢) 惡(悪) 關(関) 樂(楽) 觸(触) 價(価) 輕(軽) 豫(予) 當(当) 譯(訳) 體(体) 廢(廃) 觀(観) 點(点) 竝(並)

■「古文・漢文はいらない」論
 題名に「古文・漢文はいらない」と書きましたが、「古文・漢文は要󠄁らない」「古文・漢文入らない」のどちらでせうか。ヒントは、このブログが歷史的󠄁かなづかひで書かれてゐる事です。
 正解は「要󠄁らない」の方です。「要󠄁らない」は「いらない」、「入らない」は「はひらない」と書くからです。

 それはさておき、冬󠄀の受󠄁驗シーズンになると每年のやうに起󠄁こる論爭があります。「古文・漢文の授󠄁業は日常生活で必要󠄁ないので要󠄁らない」「全󠄁員が學ぶ必要󠄁はなく、專門家に任せれば十分だ」「大學入試から外せ」と主󠄁張する人と、その主󠄁張に反論する人との論爭です。
 實は、これは今に始まった主󠄁張ではなく、私の知る限りでも八十年前󠄁からあるものです。
古典ヲ 解釋スル ノワ 專門家ノ 任務
 一体,今日ノ 實社會ノ 文字生活ニ オイテ,永久ニ 傳エル タメニ 書ク 文章ワ 何パーセント アル ト ユウ ノカ. 日常往󠄁復ノ ハガキ ヤ 手紙ワ 申スニ オヨバズ, ナルベク 多クノ 人ニ 讀マセル タメニ 發行サレテイル 新聞, 雜誌, 書籍デ サエモ, ソノ 大多數ワ 100年 トワ 必要󠄁ノ ナイ モノ ノミ デ アロゥ. ゴク マレ ニワ 後世ノ 國民ニモ 傳エナケレバ ナラナイ モノ ガアル. ダガ, ソレ トテモ カナヅカイ ダケヲ 復古カナヅカイ ニ シテ オイタトコロデ, ヤハリ 文法モ 意󠄁味モ, 年ト トモニ 變ル ノデ アル. コレヲ 正シク 理解スル ノワ 後世ノ 歷史學者ヤ 國文學者ノ 責任デ アル. 一般國民ワ ソレラ 專門家ノ 解釋ヲ 通󠄁ジテ 理解スベキ デ アル コト, アタカモ 今日ニ オケル 古典ノ アツカイ ト 異ラナイ. 一般國民ニ 必要󠄁ナノワ, 古典ノ 文字ナノデワ ナイ. ソノ 內容デ アル. 內容ヲ ソレゾレノ 時代ノ 國民ニ 理解 デキル 文字, 文章デ 表現シテ シメセバ ヨイ.
『カナヅカイ論』pp12-13, カナモジカイ, 昭和16(1941)年)

 その第一は何と云っても、美しい魅力に囚われていた漢語の崇拝から目覚め、本も雑誌も新聞も、演説も放送も講演も、一切の言語・文章をみずから簡易にして、誰にもわかりよく、学びよく、することである。そうしなくては、いつまでも国民が漢字に使役されて、国語教育に無駄な歳月と勢力を費やし、発明や発見に必要な新知識の吸収は遅れて、いつまでも世界文明の水準に追いつけないからで、今日の敗北を来した一因もまたそこに根ざしていないと誰が云い切れるであろう。
 そうやったら、国民が一切古典を読めなくなるではないか、と反対されるかも知れないが、それは必要な古典の数々をば、専門家の専攻に任せて、一般国民には現代語化して味わせるのである。
 又それでは語彙が貧弱になって国語が退化するではないかと、反対されるかも知れないが、乏しい中から最善を尽せば、必ず漢字・漢語の重圧下にひしがれていた国語が始めて解放されて、生きて役立ち、自らその埋め合せをする筈である。
(『国語改正案』, 金田一京助, 金田一京助全集第四巻p228)


■知の「裾野」を擴げよう
 一方、その種の意󠄁見に反對する人も大勢ゐます。たとへば「國語のルーツを知る」「心を豐かにする」「日本人としてのアイデンティティを保つ」のに重要󠄁、といった具󠄁合です。
 ここら邊は私も同意󠄁する意󠄁見が多いのですが、既に多くの人が語ってゐますから、私からは多くは語りません。その代り、別の面に注󠄁意󠄁を向けたいと思ひます。

 まづ、「造󠄁語能力」の問題です。「現代はカタカナ語が多く、わかりづらい」と愚痴をこぼす人は多い割󠄀に、「それなら和語や漢語で何と呼べば良いのか考へてくれる人」となると少ないものです。明治の偉人逹󠄁は、新しい槪念を表す新語を、「切手」「葉書」といった和語や、「自由」「經濟」といった漢語によって豐富に生み出してきました(ただし、總てがさうではなく、「ステーション(驛)」「ブランケット(毛布)」のやうにカタカナ語が使はれる場合も一部ありました)。
 どうしてカタカナ語ではなく和語や漢語による秀逸な言葉を次󠄁々と作り出す事が出來たのでせうか。新しい言葉の「材料」と「作り方」兩方の知識があったからに他なりません。
 古の賢人は「日の下には新しきものあらざるなり」と言ひましたが、「全󠄁くの無から新しい言葉を作る」事は滅多に無く、大抵は「既にある言葉の部品」を利用して作るものです。言葉の「引き出し」が澤山あればあるほど、より適󠄁切な言葉を選󠄁ぶための候補が揩ヲます。古文や漢文は、言葉の厖大(膨大)な「部品倉庫」です(最近󠄁の新語の例では、新しい年號「令和」も『萬葉集』に由來(そしてその萬葉集も他の漢文による作品の影響を受󠄁けてゐるのではとの說がある)してゐます)。それは「未來の言葉を豐かにする」のにきっと役立つはずです。それを疎かにしてもすぐには惡影響が感じられませんが、「せっかく先人逹󠄁が蓄へてきた國語の『貯金』を切り崩󠄁してゐる」事に他なりません。

 次󠄁に、「專門家に任せれば良い」といふ無關心で他人任せな態度では、結局育てるべき專門家も育たなくなります。プロの野球選󠄁手、プロのサッカー選󠄁手が日本に澤山ゐるのは、子供の頃からボールに親しんできた更󠄁に厖大なアマチュアの野球選󠄁手、サッカー選󠄁手の存在があってこそです。音󠄁樂のプロとアマチュアについても然りです。「プロになれなければ、アマチュアとしてでもスポーツや音󠄁樂をやるのは無駄だ」と言ふ人は少ないものですし、アマチュアとしてスポーツや音󠄁樂に觸れた經驗があるなら、「プロを育成󠄁する」事の價値を理解しやすくなります。
 古文・漢文も同樣に、わざわざ「裾野」を狹めると、育てるべき專門家も育たなくなりますし、專門家以外の一般人も古文・漢文の知識を輕視して、豫算を絞󠄁ったり貴重な資󠄁料を捨󠄁てたりするだらう事は想像に難くありません。逆󠄁に、子供の頃に少しでも囓っておくなら、「專門家を育てる」事の價値を理解しやすくなります。
 「自分は古文や漢文は苦手だ」といふ人もゐるでせう。それでも、全󠄁く知らないのと少し知ってゐるのとでは雲泥の差です。少し知ってゐれば、正解には辿り着けなくても「當たりを附ける」事は出來ますし、專門家に聞くにしても「どう質問すれば良いか」がわかります。

 そして、「專門家が現代語譯して、一般國民はそれを讀めばいい」と言っても、厖大な過󠄁去の文獻のうち、專門家が現代語譯してゐるのは全󠄁體の極一部、著名で採󠄁算の取れさうなもののみです。それ以外は死藏されてしまふ事になります。

 また、「柔軟な腦味噌を持つ若者を含め、一般國民の知力をなめてゐる」事と「專門家のみが獨占して愛玩する文化󠄁は滅びる」事も附け加へておきます。

■古文・漢文の價値が本當にわかるのは習󠄁得した人だけ
 「もしも日本で漢字が廢止され、學校󠄁ヘ科書を含めた出版物も全󠄁部かな書きになったら」と想像してみてください。そんな社會で「漢字の價値が體感で分かる」のは、漢字を習󠄁得した上の世代の人と專門家だけになります。漢字を知らない若い世代に「漢字はこんなに便利ですよ」といくら宣傳しても、「古風で異國情󠄁獅ふれる非日常的󠄁な文字といふ魅力はあるが、實用的󠄁ではない」といふ先入觀を打破するのは相當困難なものです。
 それと同じく、古文や漢文の價値が體感で分るのは、古文や漢文を習󠄁得した人だけです。漢字ヘ育廢止は、漢字の價値が理解されない社會をもたらしますし、古文・漢文ヘ育廢止は、古文や漢文の價値が理解されない社會をもたらします。

 「『地球が太陽の周󠄀りを回る』事を知らなくとも日常生活を送󠄁れるし、天文學者とロケットを飛ばす人だけ知ればいい」と言ふ人はほとんどゐません。それは現在立ってゐる地球を中心にした主󠄁觀的󠄁な視點の他に、宇宙から俯瞰した視點も知る事になり、視野が擴がる事に繫がります。
 古文・漢文も、專門家竝とは言はなくとも、初等・中等ヘ育で少し囓っておくだけでも、現代日本語を中心にした主󠄁觀的󠄁な視點の他に、古代の日本や中國からの視點も知る事になり、やはり視野が擴がると私は思ひます。

■宣傳
 令和4(2022)年2月1日から14日まで、東急ハンズ新宿店にて開催されてゐる「おもしろ同人誌バザールin東急ハンズ新宿店」に、文字文化󠄁協會から『本字を知る樂しみ あるある100漢字』『今昔秀歌百撰』を出品してゐます。一般書店ではお目にかかれない、自主󠄁制作した書籍を頒布するイベントです。新宿驛方面にお越しの際は、よろしければ是非お立ち寄りください。
posted by 國語問題協議會 at 22:45| Comment(0) | 押井コ馬