2017年07月07日

數學における言語(14)無限等比級數

前回、以下のやうな等式
0.33333……=1/3 ・・・@
を紹介しましたが、この等式と、たとへば
3+7=10 ・・・A
といふ等式とを比較して、私が長い間考へてきたことは、この2つの等式の等號「=」は、生身の人間にとつてはその意味が根本的に異なるのではないか、といふことでした。
等式Aの等號は、言つてみれば現實的經驗世界(=身體世界=形而下世界)で確認することができます。たとへば、實際に3個のリンゴと7個のリンゴを用意し、リンゴに手で觸れながら數へていくと、右邊の「10」に到達できます。ここに人間固有の理知の力が働いてゐるとしても、等式Aは小學1年生でも了解できます。
ところが、等式@(左邊を「無限等比級數」といふ)は、前回にも申し上げましたやうに、現實的、經驗的には確認することができません。ここで、もう少し分かりやすい例を擧げてみませう。20170707zu.jpg

1辺の長さが1の正方形を考へ、右圖のやうに、これを半分に分割し、次に殘りの部分を半分に分割し、以下同じやうに、どんどん半分に分割していきます。すると、図から容易に分かるやうに、
1/2+1/4+1/8+1/16+……=1 ・・・B
といふ等式が成り立つことが豫想されます。

等式Bの左邊も、@の左邊と同様に「無限等比級數」と言はれるものですが、上に述べた操作を現實に繰り返し行つて、左邊が右邊の「1」になることが、実際に確認できるのでせうか?言ふまでもなく、自分の全人生の時間を費やしても、現實的には「1」に到達することは不可能です。にもかかはらず、數学の世界では、@やBは當然のやうに「論理的に眞」であるとして議論を進めていくのです。

では、何故論理的に眞とするのでせうか?それは、鷗外の言ふやうに、「等式Bの左邊」は「1」である「かのやうに」考へるからなのでせうか?あるいはまた、「演繹論理」ではなく「歸納論理」による法律學を確立した末弘嚴太郎(いずたらう)(1888〜1951)の言ふ「嘘の効用」として、等式Bを是認するのでせうか?斷じてそんなことはありません。「數學」においては、等式Bは「かのやうに」でもなければ、「嘘の効用」でもない、それは、「絶體的な眞」としての等式です。そうであるとすれば、これらを「眞」とする私たちの精神とは一體如何なるものなのでしせうか?

もちろん、日本で二人目のフィールズ賞受賞者である廣中平祐氏も「數學は技術を超えてはならないもの」と語られてをり、「無限級數」を數學教師として取り扱ふ時の私も、それを肝に銘じてゐます。しかし、その一方で「技術」の大前提である、「無限」自體を問ふ私といふ生身の人間がゐることも確かなのです。

フランスの數学者アンリ・ポアンカレ(1854〜1912)は、1、2、3、・・・という自然數系列にお終ひが、私たちの現前に現れない理由を「1つの操作が1度可能だと認めらさへすれば、その作用を際限なく繰り返して考へることができると信ずる理知の能力を私たちが肯定するところにある」と述べてゐます。しかし、私たちの「身體(=現實世界)」は「1つの操作を際限なく繰り返す」ことはできません。端的に言へば、私たちの身體はいづれ「死」に至り、1つの操作の“無限”の繰り返しは不可能なのです。 結局、小矩形で、1邊の長さが1の正方形を全て覆ひt盡くすことはできません。しかしその一方で「數学」が「無限」を容認し、すべて覆ひ盡くすことが可能であるとする、その精神的な淵源とは一體何なのでせうか。私が最も注目したいのは、この點なのです。         
(河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 20:56| Comment(0) | 河田直樹

2017年07月01日

歴史的假名遣事始め (三十一) 市川 浩

クイズで遊ぶ歴史的假名遣
先月のクイズ解答
問題
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。

契冲仮名遣ははるかいにしえの人間との対話の道具であることに意味があるのであって、そもそも現実のコミュニケーションのためのものではなかつたのだ。
だが、歴史的仮名遣は、そんな現実生活と遊離した仮名遣の原理を受け継いで、現実生活の規範にさせられた。そこに無理があるのは言うまでもない。契冲仮名遣には古学という動機づけがあったが、日本人全員に課せられた歴史的仮名遣にはそれがない。にもかかわらず、契冲仮名遣とおなじ負担を強いられる。いや、それ以上の負担であった。(「かなづかい入門」111頁)

この主張に對する反論の一例を擧げます。

今囘も二つの問題點があります。第一に「契冲仮名遣ははるかいにしえの人間との対話の道具であることに意味があるのであって、」と契冲假名遣の道具としての性格を一方的に局限してしまつてゐる事です。「古の人との對話」が文化の傳承に如何に大切であるかに言及しなければ、「何だそんな道具なら要らない」と思はせてしまひます。第二には「契冲假名遣には古學といふ動機づけがあつたが、日本人全員に課せられた歴史的假名遣にはそれがない」と言ふのですが、さうでせうか。日本人が遙か古の文章に接することで祖先との一體感を培ふことは大きな意義があり、それを可能にしてゐるのが時代を超えて一貫してゐる表記、歴史的假名遣であり、我々がこれをを平生の表記として主張する理由も亦茲にあります。たゞ「契冲假名遣以上の負擔を強ひられる」ですが、實は之が歴史的假名遣批判の最大ポイントであり、これにこそ適切な對應が必要であります。詳細は別に讓るとして、茲で言ふ「契冲假名遣以上の負擔」とは宣長がその著「玉勝間」で弟子達が契冲の假名遣を正しく使用してゐないことを慨いてゐることを取上げ、その習得の困難性を主張してゐますが、文化として歴史的假名遣と言ふ時、社會全體による傳承が前提となり、その前提に立てば習得は容易であること、戰前、殆ど假名遣を系統的に學ぶことがない中で、獨りでに習得してゐた私自身の經驗があります。今思ふにそれは鐵道の驛名の假名表示(とうきやう、いうらくちやう、しながはなど)や書物のルビなどが效果的であつたことを思ひ出します。宣長の時代は未だ契冲假名遣初期のことでこのやうな「文化」としての道具立てが整つてゐなかつたと言へます。
練習問題
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。

歴史的仮名遣のなかで生活していた時代のひとたちにとつて、この字音仮名遣ほど厄介なものはなかつた。国語仮名遣のほうは、もちろん紛らわしいものもおおいが、慣れてくれば感覚的に身につくところがある。ところが字音仮名遣はそうはいかない。日本人にとつて漢字は無数にある。その無数の漢字一字につき固有の漢字音があつて、固有の漢字音はさらに呉音・漢音・唐宋音・慣用音と数種類。これらの歴史的仮名遣の仮名のつかい分けをそらで覚えることなど、普通の日本人には不可能である。パターンがあつてパターンさえわかれば簡単というかもしれないが、パターンがわかるまで勉強すれば、とっくに漢字学者になっている。普通の人はそんなに暇人ではない。(「かなづかい入門」113頁)
posted by 國語問題協議會 at 20:54| Comment(0) | 市川浩

2017年06月24日

ブックセラピー(その11) 根に還る、寢に歸る。よみがへる。 原山建郎


先だつて、知人から苦情とも相談ともつかぬ話を聞いた。
「ある本に、アメリカの生物學者が行つた實驗で、三十數センチ四方、深さ五十センチの木箱で育てた一本のライ麦の根の長さが、總延長で一萬一千二百キロメートルに達した、これはシベリア鐵道の一・五倍ぐらゐになると書かれてゐた。
にはかには信じがたい數字なので、インターネットで調べたが、一つもヒットしない」
そこで、私も知人と同じキーワードで檢索してみたが、やはり引用元の文献は出てこない。

ところが、別のキーワード(ライムギ、根毛の長さ)で檢索をかけると、九州大學・和田信一郎教授がHPに公開中の教科書『土壤學』に、「いくつかの作物の根、根毛の長さ」の表=ディットマー(PDFの三六ページ)がヒットした。
この表は、面積一平方メートル、深さ一五センチメートルの表土あたりの量に換算した數字で、ライムギの根毛の長さは三四七〇キロメートル、同じくエンバクは一七〇〇キロメートル、ケンタッキーブルーグラス(芝草)は一一一〇〇キロメートルといふ数字が出てゐた。
先の實驗とは異なる計測法なので、單純に比較するわけにはいかないが、これらの作物の根毛の長さは驚嘆に値する。
そもそも、この本の著者は、いのちの實感をとりもどす手がかりとして、一本の苗のいのちを支へる根の長さを論じたわけなので、それがライムギであれ、芝草であれ、見えない根によつて生かされてゐるいのちの營みは尊く、そして重い。

「樹高千丈落葉歸根(じゅこうせんじょうらくようきこん)」といふ中國のことわざがある。「どんなに遠く離れてゐても、人は故郷を戀しがる(いつか故郷に歸りたい)」の意で、直譯は「どんな高い木々の葉も、いつか落葉して根に歸る」となる。
つまり、春に生まれたはつぱのフレディが、秋に落葉し、冬に土(永遠のいのち)に還つていく「生と死」の物語を描いた『はつぱのフレディ――いのちの旅』(レオ・バスカーリア著、みらいなな譯、童話屋、一九九八年)の世界だが、そこには翌春、再び芽を吹く「再生」のシナリオが用意されてゐる。

グラフィつクデザイナーの松浦康平さんは、近著『文字の靈力』(工作舎、二〇一四年)の中で、「木」といふ文字の成り立ちにふれてゐる。
【木の字画には、幹があり、枝がある。そのためにこの字形は、枝のある木の姿を描くものだと説かれてゐる。
だが多くの人が指摘してゐるやうに、木の字をじつと見つめると、下の部分には、「根」の形が現れてゐることに氣づかされる。(中略)
古代の中國の人びとは、見えない根を引き出して文字の字画を組み立てた。】
(同書一三一〜一三二ページ)

同書には、また【樹木や植物が見せる死と再生の變容は、人びとに「神話的な時間」の存在を告げるものとなつた】とも、【時間といふものが、閉ぢた一つの輪、無限のくり返しをもつ輪になる】とも書かれてゐる。つまり、落葉は根に歸るのではなく、生命循環のシナリオに從つて根に還る。

夕暮どき、人々は「寢に歸る」ために家路をたどる。母なる大地に身をゆだね、目を閉ぢて眠る暗闇の世界は、「根に還る」ひととき、根の國への回路が開かれる、異次元の時刻である。
根の國とは、冥界(光のない闇の世界)、あるいは黄泉(やみ→よみ)の國である。また、死んだと思つた人が生き返ることを「よみがへる(黄泉の國から生還した)」といふ。
毎晩、根の國に還つて、冥界の「死」を體驗し、毎朝、目を覺まし、よみがへりの「生」を確かめる。毎日が、「死と再生」のドラマ。
(武藏野大學非常勤講師『出版ニュース』コラム Book Therapy no.42 )
posted by 國語問題協議會 at 12:26| Comment(0) | 市川浩