2019年09月17日

日本語ウォッチング(24) 織田多宇人

罪に服する
服するとは、納得して從ふことである。『小説宝石』の古い號に、「すべてを申上げて、罪に服したいとおもいます」と言ふ科白が出て來てゐるが、納得して罪に從ふと言ふのはをかしい。恐らく、刑に服するの間違ひであらう。罪の字を活かすのであれば「罪の償をしたいと思ひます」とすればよい。他に「服する」の例としては、「兵役に服する」、「喪に服する」、「勞役に服する」等がある。
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2019年09月12日

數學における言語(50)プロティノス(T)

 プロティノス(204年頃〜270年頃)は、ナイル河の中流にあるリュコスといふ町で生まれ、28歳のときアレクサンドレイアの哲學者アンモニウス・サッカスの許で11年間學び、40歳のときローマに赴いて哲學學校を開き多くの弟子たちを育てたと言はれてゐます。弟子の中には女性の弟子たちもゐたやうですが、プロティノスの最期を看取つたのはエウストキオスといふ弟子で、彼は醫者でもありました。
 享年66歳、と言はれてゐますが、彼は「身體の中で生きてゐることを恥ぢてゐた」ので自分の誕生日も氏素性についてもほとんど語ることがなく、また著作も全く殘してはゐません。彼の言葉は弟子たちが殘した『エンネアデス(Enneades)』を通してのみ知ることができます。
 こんにち私たち日本人は、プロティノスの言説を『後期ギリシア哲學者資料集』(山本光雄/戸塚七郎譯編・岩波書店)によつて知ることができます。私はIyinsに從つて、プロティノスの哲學が「遠近法」を生み出したと述べましたが、實際上記の資料集を讀み返すとIvansの炯眼に脱帽したくなります。しかし、私自身は1988年に出た3刷の資料集を初めて讀んだとき、プロティノスと「遠近法」の連關などには思ひも及ばず、實はすぐに聯想したのは十代の頃から愛誦してゐた伊東靜雄の「太陽は美しく輝き/あるいは 太陽の美しく輝くことを希ひ」といふ詩句であり、そして青年の虚榮心から讀み齧つてゐたハイデガー哲學の「現存在(Dasein)」といふ言葉でした。私には、プロティノスが「新プラトン學派である」などといつた彼の哲學史的な位置づけや意味にはほとんど關心はありません。私の興味はプロティノスの言説に繰り返し出てくる言葉、すなはち「かのもの、太陽、光」や「自分の外に逃げるのではなく、自分の内にある光を直視せよ」といふ言葉にあります。言ふまでもなく、前者の言葉からは伊東の詩を、また後者の言葉からはハイデガーの未完の哲學「存在と時間」を聯想するわけですが、「Dasein」の「Da」には「明るみ」といふ意味が込められてゐたのはよく知られてゐます。
 少し脱線します(私の話はいつも脱線しますね)が、伊東靜雄の詩についていましばらく語るのをお許しください。と言ふのも、それがプロティノス哲學を瑞々しい形で把握するのには最適ではないか、また私自身がプロティノスをどのやうに理解してゐるかを讀者の方々にお傳へするには手つ取り早いのではないかと愚考するからです。
 今となつては「若氣の至り」といふほかはありませんが、私は二十歳すぎのとき『夏至の趾』といふ貧しい詩集を自費出版し、その詩集の最後に「伊東靜雄私論」といふ拙論も收めました。「反時代」に固執してゐた當時の私はすべて「歴史的假名遣ひ」で文章を書いてゐましたが、この詩集を、『詩人伊東靜雄』、『蓮田善明とその死』の御著者である小高根二郎氏に獻呈したところ、御丁寧なお返事を頂きました。もはや差し支へないと思はれますので、その一部を紹介します。
 「伊東靜雄私論」を拜讀。「春の雪」に觸れられてをりますが、私は丁度「風土と詩人」といふ主題のもとで、「春の雪」のところを執筆してゐたところだつたので、思はず、はつ!としました。お盆の日だつたので、伊東の導きだつたのかと思ひました。

 ちなみに、『蓮田善明とその死』には「死ぬことが文化だ」と記した三島由紀夫の「序」が付されてゐて、「小高根氏が蓮田氏の愛と死について語る筆致は、清澄高雅で、豪も死者の靈を傷つけず、生き殘つた者の不遜を免かれ、(中略)實證主義の卑賤に陷らず、無禮な分析を避けて」とあります。伊東の詩には「太陽、光」といふ言葉が多く登場します。「が幸福にする」(「冷たい場所で」)、「切に願はれたをして」(「わがひとに與ふる哀歌」)、「あゝわれら自ら孤(こ)寂(せき)なる發なり」(「八月の石にすがりて」)、「六月の夜と晝のあはひに/萬象のこれは自らる明るさのとき」(「水中花」)、「われ秋のに謝す」(「百千の」)といつた具合です。プロティノスにとつても伊東にとつても「太陽、光」は大切なテーマでしたが次囘もこれについて考へます。(河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 07:06| Comment(0) | 河田直樹

2019年09月04日

日本語ウォッチング(23)  織田多宇人

斷乎として人間ではありませむ
もう放映してゐないが、昔のTBSテレビの「水戸黄門」で「斷乎として食ひ逃げをするやうな人間ではありませむぞ」と言つてゐたさうだが、「斷乎」はきつぱり押切る積極的行爲につける副詞で、「ありません」と言ふ否定的、消極的な動詞には使はない。恐らく「そんな人間ではないと斷乎として主張する」と言ふつもりだつたのだらう。「斷乎として困ります」と言ふのもあつた。この場合も「困る」は消極的な姿勢であるから、「斷乎として」を使ふことは許されないと、斷乎として主張したい。
posted by 國語問題協議會 at 07:14| Comment(0) | 織田多宇人