2018年09月22日

日本語ウォッチング(5)  歸つてしまふとも限らない 織田多宇人

週刊誌の小説か何かで「元來、變つてゐる彼女のことだから本當に歸つてしまふとも限らない」とあつたが、妙な表現である。これでは、歸つてしまふのではないかと言ひたいのか、歸つてしまはないだらうと言ひたいのか、はつきりしない。文脈から判斷すれば、歸つてしまふかもしれないと言ふ事らしいのだが、それなら、「歸つてしまはないとも限らない」と言ふべきではないか。さうでないと、逆の意味に受取られる惧がある。また、歸らないのかも知れないと言ひたいなら、「歸つてしまふとは限らない」と言ふべきであらう。何れにしても、元の儘ではどうしやうもない。
日本語ではこのやうな二重否定の言葉がしばしば使はれるので紛はしい。お座敷小唄の「富士の高嶺に 降る雪も 京都先斗町に 降る雪も 雪に變りは ないじやなし とけて流れりや 皆同じ」の歌詞で、「雪に變りは ないじやなし」と言ふのは、「あるじやなし」が正しいと思ふ。「なし」は否定ではなく、強調を意味する間投助詞だからその儘で良いのだと言ふ人もゐるがやはり、「あるじやなし」とすべきだらう。皆樣はどう思はれますか。
posted by 國語問題協議會 at 10:38| Comment(0) | 織田多宇人

2018年09月14日

一口話 2 連と聯    雁井里香

 「連座」といふ言葉があります。江戸時代には、犯罪を犯すと、親や子も連帯責任で罰せられるといふ前近代的な規定がありました。今でも、選挙違反にはこの「連座制」が適用されることがあります。有力運動員が選挙違反で有罪になると候補者が當選取り消しになることがあるといふ規定です。
 「連座」とは「連なつて座る」です。縄で縛られてお白洲に横並びに座らされてゐる様子を表してゐます。前回、「連」は「もしくは縦に、まつすぐ一本につながつてゐる」(一次元的)、「聯」は「四方八方から呼び寄せて一緒になる」(二次元的)といふ説明をしました。「連座」の場合はに並んで座るのですから、當然、「聯」ではなく「連」を使ひます。
 ふつうの國語辞典を引くと、「連座」の場合は「連」を使へ、「連合」の場合は「連」でも「聯」でもいいと出てゐます。(「聯」には常用漢字でないといふ印がついてゐますが)
 これは、國語辞典がややこしい説明を避けるための苦肉の策なのです。「連座」の場合は戦前から「連」でなければいけなかつたのです。「聯」は駄目でした。それに對して「連合」の場合は本當は(戦前は)「聯」。戦後「『聯』は駄目、『連』でなければいけない」となつたために、戰前の漢字を知りたい人のために、「どちらでもいい」といふ書き方をしてゐるのです。

posted by 國語問題協議會 at 21:50| Comment(0) | 市川浩

2018年09月06日

數學における言語(31)  古代希臘の無限思想(U)

 前回述べたように、『ピレポス』は謂はば「思慮(知)と快樂のcompetition」といつた趣の對話篇ですが、ソクラテスは、これらはそれ自身單獨では究極の善としての“一等賞”を獲得することができない、と指摘してゐます。實際、第10章の冒頭でソクラテスは「快樂と思慮とについて、兩者のいづれも究極の善ではなくて、別の第三のものがさうなのだ、それは両者よりすぐれてゐて、これらと異なるといふ内容のものだ(第14章でソクラテスは「快樂と思慮の混じり合つた生活が勝利者ときめた」と述べてゐる)」と語つてゐます。したがつて、いまから始められる言論のcompetitionは、“二等賞と三等賞”を決めるためのもので、そのためには「新しい道具立てが入用になる」と述べ、例の「有限と無限」の議論に入つていくのです。
 世界の存在についてソクラテスが第一類から第四類まで部類分けしてゐることはすでに述べましたが、ソクラテスは「快樂と思慮の混じり合つた生活」を、「第三類の一部をなすもの」とし、それは「すべて無限なるものが限度によつて束縛されてゐるときに、そのなかから出てくるもの」と意味深なことを述べてゐます。そして、これを確認した上でピレポスとソクラテスとは、以下のような議論を始めます。ここは、大變面白いので直接引用してみます。
 ソクラテス:快と苦は限度をもつものなのかね。それとも「もつと多く、もつと少なく」を受け入れる性のものなのかね。
 ピレポス:それは「もつと多く」の方を受け入れる部類だね。ソクラテス。さうでなかつたら、快樂は全き善にはならなかつたろうね。つまりそれがもし量においても、またもつと多くなる度においても、ちやうどまさに無限でなかつたとしたらね。
 ソクラテス:しかしまた苦も、ピレポスよ、そうでなかつたら、全き悪にはならなかつただらうね。したがつて、われわれは、無限の〔性をもつ〕種族とは別の何かを調べてみなければならない。それがいかにして快樂に善としての何かを附與してゐるかといふことを。だから、快苦の二つを君は限りないものの類に属するとしなければならない。
 この問答から例の「道具」が、どのように利用されてゐるか、その一端を垣間見ることができますが、譯者の田中美知太郎氏は脚註で「ピレポスは『もつと少なく』の方は無視してしまふわけで、ピレポスの面目がよく出てゐる。次のソクラテスの應答もピレポスの一面的な考へ方の弱点をついてゐる。無限だけでは、善にも悪にもなるから、快の善を主張するのには別の理由をさがさねばならないことになる」とお書きになつてゐます。ピレポスの考へるやうに「快樂」が第一類(「無限性」)に属し、その非限界性の故に「善」であるとすれば、「苦」もまた限度を受け入れないゆえに「善」でなければならず、ピレポスの主張は論理的に破綻してしまふことになります。
 いまの私には、『ピレポス』の「快樂」や「思慮」といふ言葉の定義はいささか曖昧に思はれ、したがつてそのどちらが勝者になるかといつたことには餘り興味はありません。しかし人間の快樂原理を考へる上で、ソクラテスが「有限と無限」といふ視座を用意してゐることに對しては非常な共感を覺え、またこの作品を通してソクラテスやプラトンが「無限」の問題をどう考へてゐたかも知ることができます。
ところで、『ピレポス』といふ作品で私が最後まで氣になるのは第4類の「混合と生成の原因となるもの」で、これについては對話篇の中でほとんど論じられてゐません。私にはよく理解できませんが、これはタレスの友人アナクシマンドロス(前610年頃〜前550年頃)の言ふ「萬物の根源(アルケー)」たる「ト・アペイロン(無限なるもの)」のことなのかとも思はれます。アナクシマンドロスが、所謂“ソクラテス以前の哲学者”であつたことを考へると、これはあながち無謀な推測ではないかと思はれます。          

古代希臘の無限思想(V)(32)
 アナクシマンドロスは所謂「ソクラテス以前」の哲學者ですが、こんにちの私たちは『初期ギリシア哲學者斷片集』(山本光雄譯編)によつて、彼の主張について多少は知ることができます。『斷片集』によれば、アナクシマンドロスの考へた「世界原理」、「無限なるものの属性」、「無限なるものを原理とした理由」、「無數の世界」といつたことへの言及が見られ、彼のいふ「ト・アペイロン(無限なるもの)」が、近代數學の洗禮を受けた意味での“無限”とは決定的に異なることを知ることができます。要するに、それは『ピレポス』でも述べられた「限界がないもの、限定されてゐないもの」であり、「形相(エイドスと言つてもよいが)として限定されてゐないもの」が、「ト・アペイロン」なのです。
 「無限と有限」の問題を何らかの意味で論じてゐる「ソクラテス以前」の哲學者で、アナクシマンドロス以外に私の興味関心を強く喚起する人物に、パルメニデス(前540年頃)、ゼノン(前490年頃〜前430年頃)、アナクサゴラス(前500年頃〜前430年頃)の三人がゐます。
 パルメニデスについては、第26回の連載で取り上げた長谷川三千子氏の『日本語の哲學へ』の第3章「『ある』の難関」でも、およそ30頁に亘つて議論されてゐます。それだけ注目に値する哲學者だといふことですが、かつて私は拙著『古代ギリシアの數理哲學への旅』(現代數學社)の中でパルメニデスについて、「論理の無矛盾性と整合性とが『存在(在る、eon)』を保證してゐるといふ思考法は、人類の歴史の中で宇宙飛行士的な役割を演じる」と書いたことがあります。要するに、パルメニデスは「世界のアルケーを物のレベルから觀念(思惟)のレベルに飛翔させた」古代希臘哲學のepoch-making的な存在だといふわけです。
 プラトンは中期の對話篇『テアイテトス』において、若きソクラテスをして「パルメニデスといふ人は、ホメロスのいわゆる『畏敬すべく、また畏怖すべき人』であり、あらゆる點で高貴な、何か底知れないやうなものを持つてゐるやうに見えたのです」と回想させてゐますし、彼には『パルメニデス』といふ作品もあります。この對話篇には、パルメニデスの弟子のゼノンが登場してきますが、言ふまでもなく「アキレスは亀に追ひつけない」とか「飛んでゐる矢は止まつてゐる」といつた逆理(パラドつクス)で有名な、あのゼノンです。パルメニデスの言説とゼノンの逆理との関係については『パルメニデス』で長々と語られてゐる(ここでは触れません)のですが、それはともかく、ゼノンの逆理には上に述べた二つのほかに「2分割」や「競技場」に関するパラドックスがあります。これら四つのパラドックスは、第13回目の連載ですでに述べた「線分の3等分点」や「2時と2時1分の間の無限個の時刻」にまつはる私自身の幼い議論と同種同類のもので、私にとつてゼノンの逆理は決して他人事(ひとごと)ではありません。少々大袈裟に言へば私自身の“實存”に根差した問題であり、御門違ひと笑はれるかもしれませんが、ハイデガーの“存在と時間”への関心の根底にも、この“ゼノン體験”があります。
 ところで、ゼノンの逆理で私が繰り返し思ひ出す一節があります。數學者吉田洋一氏の名著『零の発見』の中にある以下の文章です。
  アキレス問題がわからないのは、粗雜な日常の言語によつてものを考へるからであつて、本來かういふ量に関する問題は量の言語である數學によつて考へなければならない、すなはち、いまのべた級數による考へ方がこの問題に對するもつとも正しい考へ方であつて、これによれば、この問題など明白のきはみである、と力んでゐる數學者もあるのであるが、不幸にして、私はまだその意味がよく呑み込めるほどの樂天家にはなれないでゐる。
 そして、吉田氏はこの名著を「ゼノンの巻き起こした問題はいまにいたるも謎であつて、デデキントの數學的連續の概念によつてこれを解明しえようとはどうしても思はれない。かういふ問題を考究することは、あるいは哲學の領分であつて、數學本來の職掌外であるのかもしれない」と締めくくつてをられます。                                (河田直樹・かはたなほき)

posted by 國語問題協議會 at 12:08| Comment(0) | 河田直樹