2017年03月19日

きゃりこの戀(43) 字音の不思議 雁井理香

 
寧々
 三囘続けて寧々の登場です。
オスカー
 次囘はまた易しくなるので、きゃりこさんだけ。
きゃりこ
 おばかでかはいいきゃりこ。(小聲で)ねえ、オスカー先生、ひよつとして寧々のモデルって、雁井さんぢやない? 性格惡いのかな。
寧々
 今日は、字音の話を伺ひたいのです。
きゃりこ
 あッ。字音って、漢字の《音讀み》のことだつたよね。
寧々
 字音って、中國語の發音の眞似をして作つたんですよね。mountainを表す「山」は中国語で「サン」だから、日本語でも「さん」と読んだ。これが《音讀み》。そして、日本語では昔から、mountainのことを「やま」と言つてゐたから、「山」の字も意味を取つて「やま」とも讀むやうになつた。これが《訓讀み》。
 「開」も中國語でkai。だから、《音讀み》は「かい」。意味はopenといふ動詞だから、日本語の「ひらく」に相當する。だから、「ひらく」が《訓讀み》になつたの。
きゃりこ
 さうだつたのか。さういふこと全然知らなかつたよ。漢字が中国から来たことは知つてゐたけど、意味だけ中国語と同じで、読み方は全部日本で作つたと思つてた。
 学校でそんなこと、全然教へてくれなかつたよ。
寧々
 小学校で教はつたの。あんただけ覚えてないの。
 でも、不思議なのは、中國語の発音と《音讀み》が相当にずれてゐること。今、「山」は「サン」と言つたけど、ピンインはshanです。「シャン」と発音するのよね、中國では。
きゃりこ
 「ピンイン」って、何?
寧々
 中国の正式なアルファベット表記の書き方よ。基本的に英語の真似をしたとは言へるけど、xを「し」、qを「ち」と讀んだりして、中國語の複雑な発音体系をうまく表すやうになつてゐる。
 中國語の発音と《音讀み》のズレって、ズレが原則かと思ふほどに違ひますよね。「難」nanは《音讀み》でも「なん」だから一致してる。「相」xiang(しぁん)が「さう」になるのはまだ近い。でも、「金」jin(ジン)が「きん」になると附いて行けない。「陸」はlu(ルー)なのに、《音讀み》は「りく」。「區」qu(チュィ)が「く」。取り入れるとき、ずゐぶんいい加減なことしたんぢやないかしら。
オスカー
 寧々さんともあらう人が、そこはちよつと勉強が足りませんね。
寧々
 きゃり。何笑つてるの。
きゃりこ
 わ、わらつてないよ。
オスカー
 現代北京語とは相当にずれてゐるけど、古代中國語の推定音とはピタリと一致するんですよ。漢字が日本に入つて來た頃の中国語の発音(地域によつて違ふから大雑把な言ひ方ですが)を《隋唐音》と言ひます。今、寧々さんの擧げた漢字を見てみますと、《隋唐音》では、相sang、金kim、陸rik、區koですから、現代北京語よりはずつと《音讀み》に近いでせう。ついでに、「山」も現代北京語ではshanだけど、《隋唐音》ではsanです。
きゃりこ
 そんな昔の発音がどうして分かるの。
オスカー
 昔の本に発音が出てゐるのですよ。
寧々
 さうか。それが「反切法(はんせつはふ)」なのか。
オスカー
 さうなんですよ。難しい漢字の発音を表すために、二つの易しい漢字を組み合せて表記するのです。「東は徳と紅の切である」と言ひます。この三つの漢字、「東」「コ」「紅」の《隋唐音》がそれぞれtong, tok, hongであることから来てゐます。つまり、「東」tongは「コ」tokのt-と「紅」hongの-ongを合体させた発音だといふことです。六朝時代の「韻書」といふ辞書に詳説されてゐます。
寧々
 六朝つて、隋や唐よりも前の時代ですよね。
オスカー
 そんな昔から、こんなに精密で学問的な研究が進んでゐたんです。もっとも、古代インドの言語學の影響を受けてのことのやうですから、言葉の研究はとても古いんですね。
寧々
 自然科学だけは、昔と今では大違ひですが、人文科学、社会科学は、二千年前でも現代でも、さうは變らないのですね。といふより、純粋な論理的思考能力は、昔の人も現代人より少しも劣る所がなかつたのでせうね。
posted by 國語問題協議會 at 11:31| Comment(0) | 雁井理香

2017年03月12日

數學における言葉(その10) 西洋への憬れと誤解

數學における言葉(その10) 西洋への憬れと誤解

 福沢諭吉は『文明論之概略』で、「苟も一國文明の進歩を謀るものは、歐羅巴(ヨーロッパ)の文明を目的として議論の本位を定め、この本位に據りて事物の利害得失を談ぜざる可からず」と警鐘を鳴らしてゐますが、日本は明治以來「脱亞入歐」を國是とし、「西洋に追ひつけ、追ひ越せ」と、歐羅巴の「文物や科學技術」を取り入れるのに急であつたことは、今さら確認するまでもないことでせう。
 さうした時代の流れを反映して、明治、大正期の多くの知識人たちが、歐羅巴に憧れ、また實際に洋行してかの地の現實に直接触れてきたこともよく知られてゐます。若き日にボードレール、ワイルド、ポオなどから影響を受けた谷崎潤一郎、亞米利加、佛蘭西に遊び『あめりか物語』『ふらんす物語』を殘した永井荷風、山本夏彦の『無想庵物語』(この小説には抽象代數學者園正造も登場する)の主人公武林盤雄などもその代表選手です。また「ふらんすへ行きたしと思へども/ふらんすはあまりに遠し」という佛蘭西へのあられもない憧憬を詠つた萩原朔太郎もさうした一人でした。かうした人たちは、おそらく當時の平均的な庶民の羨望の的であり、それはそのまま庶民たちの「便利で豊かな西洋文明」への憧れに繋がつてゐたに違ひありません。
 しかし、ここで少し考へてみたいことは、多くの洋行者たちが歐米から何を得、何を持ちかへつてきたのか、といふ問題です。少々荒つぽいことを言へば、それは幕末以來、その表面的な華やかさで日本人を幻惑し續けた「洋才」だけだつたのではないか、すなはち「すぐに役に立つ(今もこの言葉は本のタイトルなどで亂用されてゐる)」功利的實利的學問のみではなかつたのか、といふことです。もちろんそれが一概に惡いことだとは私も思つてゐませんし、さうしなければ、日本は歐米列強の餌食にされてゐたことでせう。
しかし、私は、多くの知識人たちは歐羅巴文明あるいは文化の根底に潜む精神や魂の「役に立たない」淵源について長い間語つてこなかつたやうな氣がしてゐます。イタリアのイエズス会の宣教師マテオ=リッチのユークリッドの「幾何学原論」の飜譯は、享保年間にはすでに我が國に入つていましたが、和算家たちはユークリッド流の嚴密な論理による証明法にはほとんど關心を示してゐませんし、また志筑忠雄の『歴象新書』でニュートン力學の形で紹介された西洋數學にも、注意を拂つてゐません。おそらく「すぐに役立つ」と考へなかつたからでせうが、歐羅巴の知識人たち(サッケリーもその一人)が、原論の第5公理(平行線の公理)を、2000年以上に亘つて考へ續け、つひに「非ユークリッド幾何學」を創出するに至るなど夢想だにしなかつたでせう。「役に立たない」問題を千年、二千年に亘って考へ續ける、ここに歐羅巴文化の淵源と精髄、そして魂があることを、私たちは忘れてはなりますまい。
「欧米に追ひつけ、追ひ越せ」といふスローガンは、私が子供の頃の昭和30年代においてもよく言はれてゐたことですが、その一方で佐久間象山以來の「和魂洋才」といふ言葉もしばしば耳にしたものです。「魂は東洋、技術は西洋」といふわけです。しかし、なぜこんなことを言ふ必要があつたのでせうか?もちろん「和魂」には和魂の素晴らしさがありますが、歐羅巴の魂が多少でも理解されてゐれば、こんな夜郎自大的な言擧げはしなかつたはずです
 アメリカ、フランスに遊んだ荷風は結局江戸趣味に引きこもり、ポオに親しんだ大谷崎も日本の古典美に囘歸するほかはありませんでした。谷崎はポオとは異なり「無限はある観念ではなく、ある観念への努力を表現するものである。(中略)。人はこの努力に名を與へることを必要としたので、『無限』といふ言葉が生まれた」(『ユリイカ』谷崎精二譯)といつたやうな「形而上的、抽象的、普遍的」な言葉は決して書き殘さなかつたのです。ちなみに、私は、西洋文化の普遍的精神のその淵源を眞に了解してゐた我が國の例外的知識人は、福田恆存ただ一人ではなかつたか、といふ氣がしてゐます。     (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 23:07| Comment(0) | 河田直樹

2017年03月09日

歴史的假名遣事始め (二十七) 市川 浩

クイズで遊ぶ歴史的假名遣(二十七)

先月のクイズ解答
問題
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。

いよいよ小学校での英語の必修が本格化し、中学入試の対象にもなる。グローバル化の流れは止められない中で、子供たちは必死に頑張つている。そこへ漢字だ、仮名遣いだと余計な負担をかけて、結局どれも中途半端に終ってしまったら、正字・正かな屋はどう責任をとってくれるのか。

この主張に對する反論の一例を擧げます。

九年間といふ時間的に制限のある義務教育に何を求めるか、意見はいろいろありますが、小中學校といふ人生始めて學ぶ學校がどのやうな役割を擔ふべきかを先づ考ふべきです。
則ち學校は「學問」の基礎として古典を「讀み」、「暗唱」させることが無ければなりません。其れは例へば、幼兒用の「音樂教室」では、發聲や音感など「基礎」を、「體操教室」では正しい姿勢や身體の動かし方など「基礎」を「身體で」覺えさせるのと同じです。
一方、學習指導要領では先づ「話すこと・聞くこと」により「議論」の「基礎」を教へよとしてゐますが、こんなことは「國語」以外の「算數」、「理科」、「社會」、更には「道徳」等の教科でも十分訓練可能なのです。でも學校の學校たる所以である「古典の讀みと暗唱」を學ばせることができるのは「國語」しかなく、茲に「國語」の教科としての重要性があるのです。
その「古典」と現代文とで表記が違ふといふ、それも單なる行政の都合で、不便な條件を強ひられてゐる子供達を見殺しに出來ないからこそ、口語體、文語體に共用可能な正字・正かなを主張してゐるのです。

そこで此の問題を契機に「現代仮名遣い」側論者の代表的著作ともいふべき白石良夫著「かなづかい入門」の所論を吟味してみたいと思ひます。

練習問題
下記の所論に問題があるとすれば、その反論を御書き下さい。(問題の性質上、敢て新字・新かなで表記してあります)。
歴史的仮名遣と現代人
歴史的仮名遣を守ったひとたちは、大きく二のタイプに分けられる。一つは、染み付いてしまった習慣をいまさら変えられないというひとたちである。(中略)もう一つは、現代仮名遣よりも歴史的仮名遣のほうが優れていると確信しているひとたち、あるいはなんとなくそう思っているひとたちである。(中略)かれらの確信の最大の根拠は何かといえば、それは学問的合理性である。(以下略)
学問的合理性は規範の必要条件か
「歴史的仮名遣には学問的合理性があった」と言うのは、わたしではない。歴史的仮名遣のほうが現代仮名遣より優れていると信じしているひとたちが、そう言うのである。
はたして、そうだろうか。
(「かなづかい入門」10〜11頁)

posted by 國語問題協議會 at 18:07| Comment(0) | 市川浩