2022年10月09日

日本語ウォッチング(54) 織田多宇人

虎視耽々
 四文字熟語に接した時、時々あれつと言ふ間違󠄂ひを見ることがある。「虎視耽々」等も其の一つ。「こしたんたん」は虎が獲物を銳い目でねらうことだから、當然「目偏󠄁」であり「耳偏󠄁」である筈がない。從つて「虎視眈々」でなければならない。「耽」も「眈」も音󠄁は「タン」であるが、訓は「耽」は「ふける」であり、「眈」は「にらむ」である。「眈」の熟語は「眈々(此の例から轉じて、野心を以て機會を狙う樣)」位しかないが、「耽」の熟語としては、「耽美(美にふけり陶醉すること)」、「耽溺(ふけりおぼれる)」、「耽讀(讀書にふける)」等がある。
posted by 國語問題協議會 at 20:00| Comment(0) | 織田多宇人

2022年10月01日

かなづかひ名物百珍(21)「をけら祭(サイ)」/ア一カ

[をけら]
 京キ八坂~社の元旦の~事。現在も「をけら」表記。舊稱「祇園削󠄁掛~事(ぎをんけづりかけのしんじ)」。

 ヲケラ(朮、Atractylodes japonica)は菊科朮屬の多年草。漢方の生藥「白朮(びゃくじゅつ)」はその地下莖。蟲類のケラ(螻蛄)とは關係ない。賭事などに負け所󠄁持金の無い意󠄁味の「おけら」は螻蛄から來た隱語である。
posted by 國語問題協議會 at 17:00| Comment(0) | 高崎一郎

2022年09月25日

數學における言語(80) 中世~學論爭と數學−前󠄁󠄁期ヘ父哲學(V)

 テルトゥリアヌスの「非合理ゆゑに我信ず」といふことに關聯して、いま少し述󠄁べておきたいと思ひます。哲學の根本動機が「哀しみ」である語つた西田幾多カは、終󠄁生「數學」にも關心を持續し續けた哲學者でしたが、彼は昭和7年(1932)に出版した後期󠄁の代表的󠄁著作の一つである『無の自覺的󠄁限定』で次󠄁のやうに述󠄁べてゐます。
 實在と考へられるものは、その根柢に何處までも非合理的󠄁と考へられるものがなければならない。單に合理的󠄁なるものは實在ではない。(中略)倂(ただ)し、非合理なるものが縱(たとひ)、非合理的󠄁としても、考へられると云ふ以上、如何にして考へられるかが明󠄁にせられなければならぬ。非合理なるものが考へられると云ふには、我々の論理的󠄁思惟の構󠄁造󠄁そのものに、その可能なる所󠄁以のものがなければならぬ。

 “絶對矛盾の自己同一”の哲學者らしい言葉ですが、實はこの文言は拙著『無限と連續−哲學的󠄁實數論』(現代數學社)で引用したものです。私はこの引用の後に「『無限や連続』がたとい非合理であったとしても、それが考えられる以上、私たち自身のその思考を、あらゆる角度から徹底的に検討してみるべきではないでしょうか」と續けてゐます。
 さらに脫線してしまひますが、“連續體”といふものの不思議について、『連続体の数理哲学』(東海大学出版会)の著者澤口昭聿氏(1927〜)の次󠄁の言葉を紹介しておきませう。
 われわれが連続体に接するとき、その不思議な性格に深い驚異を感ぜずにはいられないだろう。連続体は直観的には自明である。われわれがそれをもっとも素朴に表象するならば、描かれた直線を以ってするする外ないであろう。従って連続体は感性的認識の一番根底にある。しかるに連続体は数学の基礎概念として高度な理性的認識の対象であろう。ここではその直観的自明性は突如消滅して複雑な論理的構築物へと変貌する。

 このやうに語られた後、澤口氏は「したがって、連奥体の問題は哲学の方からは、感性と理性の関係という古代の大問題と同一の問題となるが、感性と理性は調和できず、むしろ両者は相互に否定的であり、ここに連続問題の真の難点がある」と述󠄁べられてゐます。この指摘は、實際に數學屋として“實數”を數學的󠄁、論理的󠄁に認󠄁識しようとすると、痛いほど實感できることで、これは謂はば”アナログ認󠄁識“と”デジタル認󠄁識“の齟齬とも言ひ得られます。いづれにせよ連續體とそれに對峙する人間とのはざまに生じるこの“非合理”には、ただただ驚くばかりです。
 ところで、このやうな“非合理”を西田幾多カはどのやうに考へてゐたのでせうか? 今囘はそれを最後に紹介しておきませう。
 彼は、『意󠄁志の問題』といふ論文で「近󠄁代に至るまで數學者は連續について明󠄁晰なる槪念を有しなかつた」と指摘して、「有理數(整數比で表される數)」と「無理數(整數比では表せない數)」との違󠄂ひを、「有理數は考へられたもの」であり、無理數は考へる作用そのもの」と述󠄁べて、この違󠄂ひを「思惟」と「意󠄁志」との違󠄂ひに還󠄁元して次󠄁のやうに述󠄁べます。
 分離的󠄁discreteなるものを意󠄁識する作用は單なる思惟である。class-conceptを構󠄁成󠄁する論理的󠄁思惟の作用である。この如き分離的󠄁要󠄁素が無限と考へられたとき我々はすでにそのアプリオリの性質、作用の性質を變ずるのである。(中略)余はこの推移において、思惟から意󠄁志への推移があるといふのである。

 西田が主󠄁張してゐるのは、「有理數」と「無理數」とへの私たちの關はり方の違󠄂ひですが、彼は「無限なる進󠄁行過󠄁程󠄁は思惟であり、作用そのものは意󠄁志であり、可能なるものがその極限において實在的󠄁となる。SubtanzbegriffからAkutualitätsbegriffへの轉化󠄁があり、物質界から拐~界への推移があるのである」と結論してゐます。この西田の結論をどのやうに受󠄁け取るかは人それぞれでせうが、「無限や連續」の問題を考へようとすると、私たちはどうしての「拐~や意󠄁識」の問題に行きつかざるをえないやうな氣がするのです。 (河田直樹・かはたなほき)
posted by 國語問題協議會 at 12:15| Comment(0) | 河田直樹